007築城当時は真っ黒?

わかやま歴史物語ストーリー007の表題は
 
   築城当時は真っ黒?白亜の大天守和歌山城とその城下町
 
前回からの話を受け継ぐと、太田城の水攻めは1585年。同じ年
秀吉は弟秀長に和歌山城の築城を命じている。普請奉行は藤堂高虎
翌1586年には但馬竹田城の城主だった桑名重晴を城代に据えた。
 
 
 
関ケ原の後、浅野幸長紀州藩主として入城、1605年に天守を建てた。 a105.jpg 
 
 
 
 
と、ここまで書いて歴史物語の冊子を見ると、「田中善蔵の碑」というのがでてきた。
知らないので、調べるしかない。
お城の南西、扇之芝は馬場だったらしい。右奥に追廻門がかすかに見える。
001_20190402223512dcc.jpg 
 
 
 
 
追廻門。   
a106.jpg 
 
 
 
 
この追廻門の右手前に、田中善蔵の碑がある。 a107.jpg 幕末、紀州藩は当然のことながら佐幕派。長州征伐などで藩の財政は悪化。
立て直しの中心人物が田中善蔵だったということだろう。
俸禄削減案が決定的だったのか慶応3年、追廻門から扇之芝あたりで暗殺
された。43歳。大政奉還竜馬暗殺の年だった。
 
 
 
 
歴史物語の冊子はこのあと寺鐘堂を紹介している。
三年坂を挟んでお城の南側にある。
005_2019040513415758a.jpg 第五代紀州藩主、徳川吉宗の時、1712年に建立された。空襲で焼けた。
 
 
 
 
ここから冊子のコースから外れてお城から南下した。突き当りは寺町通り。
b05.jpg 
 
 
 
 
途中、徳川吉宗生誕地の碑があった。
b06.jpg 
 
 
 
 
和歌山城と城下町、となると吉宗は外せない。
b07.jpg 
 
 
 
 
少し行くと、報恩寺というお寺がある。
b08.jpg 
 
 
 
 
紀州徳川家歴代正室菩提寺。(写真はちょっと昔のもの)
101.jpg 
瑤林院(ようりんいん)は加藤清正の娘で、紀州藩初代藩主徳川頼宜の正室
 
 
 
 
寺町通りに突き当たったすぐ左手に恵運寺(えうんじ)というお寺がある。
b10.jpg 
 
 
 
最近整備されたのだろうか? う~ん、珍しい書体。
b11.jpg 
 
 
 
 
この由緒書きの内容は、中々興味深い。
真ん中あたりから「当寺ゆかりの主な人物」がある。
b13.jpg   
どうも開創の山本図書正春という人が山本勘助ゆかりの人らしい。
 
 
 
 
このお寺に来たのは、「ゆかりの人物」三番目にある名取三十郎が記憶にあったから。
b14.jpg 
 
 
 
 
何年か前(調べると2012年)に、このお寺で名取三十郎正澄の墓が見つかった
というニュースがあった。日本三大忍術伝書の一つ「正忍記」の著者だという。
b15.jpg 
左側の説明書き(写真では光って見えない)に、正忍記の一節があった。
「悟りにくいもの、それは人の心である」
 
 
 
三十郎の祖父が、山本勘助から陣法築城などを学んだ、とも説明されている。
b16.jpg 
 
 
 
 
 
寺町通りからまたお城の方に戻ってきた。県立博物館の背後(横手?)に迷い込んだ。
b20.jpg 
 
 
 
 
気付く人はそう多くはないと思う場所。
b21.jpg 
 
 
 
 
お城は賑わっていた。船がこの橋の下を通るのを初めて見た。
b23.jpg 
 
 
 
 
また船がやってきた。
b24.jpg 
 
 
 
 
今回のテーマは和歌山城とその城下町、だった。
b25.jpg 
 
白亜の天守になったのは十代藩主治宝(はるとみ)の時代。
今見えるこの連立天守は1958年の再建ということです。
 
 
 
 

006雑賀孫市の合戦の舞台をたどる


わかやま歴史物語ストーリ-006の表題は

   信長に挑み続けた男・雑賀孫市鈴木孫一)の合戦の舞台をたどる

普段、戦国時代のことは積極的に調べたりしない。
雑賀孫市も名前ぐらい知ってはいるが、ほぼ何も知らない。
今回はいい機会だから調べてみる。

いわゆる雑賀衆とは、五組(五つの地域)の集まりを指す言葉らしい。
大雑把にその地域を記すと次のようになる。ほぼ今の和歌山市


        十ケ郷         中郷     根来衆
 <西>-------------------紀ノ川-----------------------------------------<東>
         雑賀荘    社家郷宮郷
                     南郷
 

雑賀五組が一枚岩かというと、そうではない。むしろ争っていた。

雑賀荘にあったのが雑賀鈴木氏。鈴木姓の発祥とされる藤白鈴木氏の支流で、
だとすれば熊野が本貫地であり、八咫烏の家紋・旗印を掲げたのも肯ける。

冊子のモデルコース順に追っかけようとしたが、なんかしっくりこないので
時系列に追っかけてみることにした。バックボーンには大坂石山合戦がある。 
雑賀衆本願寺方の主戦力になっていて、信長に睨まれていた。

1577年、雑賀三組(社家郷、中郷、南郷)が信長に寝返る。
これにより信長軍が雑賀二組(雑賀荘、十ケ郷)を攻めた。



紀ノ川の北にある(当時の十ケ郷か)ショッピングセンターの裏駐車場。
目指すものは左フェンスの奥の方にあった。
018_201903271736342a5.jpg 




中野城跡。塀の向こうは普通の民家のようだ。
019_20190327173635ba7.jpg
孝子峠(きょうしとうげ)を南下した信長勢は、この雑賀衆の城を開城させた。
説明書きには、当時の銃弾が出土している、とあった。





一方、風吹峠(かざふきとうげ)を進んだ軍は東側から雑賀城を攻めた。
前方の森が城跡。
012_2019032717354704c.jpg 




麓にある城跡山公園から登った。
013_20190327173626728.jpg 




今は寺のお堂があるのみ。
015_201903271736294d2.jpg 




麓一帯が城下町だったらしい。
016_2019032717363124e.jpg 
鈴木孫一率いる鉄砲隊、弓隊に信長軍は損害を受けて一旦退去した。
が、結局一定の条件をのんで雑賀衆は降伏し、信長軍は兵を引いたらしい。




紀三井寺や海南方面が見える。
017_20190327173632cc3.jpg 





近くにある矢宮神社。神武東征でも登場した八咫烏を祀る神社。
008_20190327173541867.jpg 
信長軍を退散させたあと、孫一らはここで勝利の「雑賀踊り」を踊ったと伝わる。
左の石柱には「紀伊国雑賀庄総社」とある。





翌1578年、信長方についた雑賀三組を孫一は許す筈もなく
中郷、南郷を味方につけ、残る社家郷を攻めた。第一次太田城の戦と云われる。
昔訪れた記憶があるが、その太田城跡を再度訪問。和歌山駅近くの住宅街を歩く。
001_20190327173531716.jpg 
太田城は15世紀末頃、紀伊国造の紀氏が造ったそうで、つまりは紀氏の城。
この時の城主は社家郷の太田左近、紀氏の支流だろうか。




来迎寺。太田城本丸跡と伝わる。
003_2019032717353478b.jpg 
この第一次の戦では、再度信長も動いて孫一を攻める。
かつ太田左近根来衆も味方につけた。
が孫一も引かず膠着状態で結局和睦したらしい。




1580年、信長と大坂本願寺は和睦した。
その条件のひとつとして本願寺の宗主、顕如紀伊鷺森別院に退去した。
004_20190327173535c9f.jpg 
境内に鷺森幼稚園がある。




ちょうど園児のお出迎えの時間帯で、境内は車だらけだった。
006.jpg 
顕如は11年間ここで過ごした。その間、当寺が浄土真宗の本拠地になったらしい。


1582年5月、信長は三男の信孝に命じて鷺森を攻めさせたらしい。
顕如と孫一が必死に応戦しなんとか持ちこたえる。

1582年6月、信長は本能寺に消えた。
孫一は三度にわたって信長勢と戦い、負けはしなかった。


1584年、秀吉と家康の戦い(小牧・長久手)のとき
太田衆(社家郷のことか)、雑賀衆根来衆が連合軍をくんで岸和田、大坂を攻めた
という事らしいが、定かでない部分もあるらしい。

1585年、秀吉は連合軍を攻めた。根来寺が焼かれたのがこの時。
ついで、太田城を攻めた。ここで不思議なのは、太田城攻めのとき
孫一は秀吉側についている。秀吉側についたのは顕如のとりなしに
よるものらしい。



この第二次太田城の戦は水攻めで有名になった。太田城水攻遺跡の碑。
002_20190327173532afb.jpg 
太田左近らはこのとき自刃した。
 
 



和歌山市平井というところにある蓮乗寺。平井は当時の十ケ郷で、孫一の本拠とされる。
021_20190327173638d1a.jpg 
雑賀孫市という名は、代々継承されたものらしい。
ここに記した孫市は、初代か二代目か?。お墓がこの寺にあるという。

 


入りづらくて、外から撮った。
022_201903271736400f2.jpg 

雑賀は紀州惣国ともよばれ
つまりは自治的協同組織で、高い軍事力(特に鉄砲)を持った傭兵集団だった。
忠誠を誓う主君を持たず
信長から始まった天下統一への流れに乗る気分を持ち得なかったのだろう。
孫一の信心は一貫して浄土真宗にあった。
そのことを考えると孫一の行動がわかる様な気がする。




和歌山市駅近くの宇治交差点。
103.jpg 




この交差点の一角に「雑賀鉢発祥の地」と題した案内板がある。
104.jpg 

雑賀鉢とは、雑賀衆がかぶった兜のことらしい。




005紀の国の由来をたどる


ヤフーからの引っ越し族、はじめての投稿。


わかやま歴史物語の005番ストーリーの表題は

   紀の国の由来をたどる ~伊太祁曽神社と木祭り~

紀の国の由来は伊太祁曽神社にあり!ということだろうか。







駅を出て南へ。すぐ民家の向こうに一の鳥居が見えてくる。
003.jpg 




鳥居や社殿は東向き。つまり西(出雲?)を向いて拝むことになる。  
013.jpg 



主祭神五十猛命(イタケルノミコト)。スサノオの御子で
新羅のソシモリから出雲や九州を経て木の国に鎮まったとされる。
011.jpg
このイタケルがあちこちに木を植えて「木の神様」と呼ばれた。
その神が棲む国なので「木の国」、というのが今回のストーリーのようだ。


けれど、それより気になるのがやっぱりスサノオ
この近くに須佐という地名が残っているし、有田の須佐神社との繋がりも深い。
そして境内社にはスサノオとイタケルが降り立った出雲鳥上峯の磐が鎮座する。
008.jpg
「ここは出雲の神を祀る神社です」と主張している。




イタケルと一緒に木を植えて回った妹の都麻津姫を祀る神社を探した。
前方に見える森だろう。伊太祁曽神社から北西に数百メートルくらい。
014.jpg 




道なりに行くと鳥居があった。
015.jpg 




文字がありそうな処を探したけれど、きれいに剥がれている。
016.jpg 




細い道を少し登る。灯篭が見えた。
017.jpg 




小さな祠があった。
018.jpg
都麻津姫を祀る神社は、この周辺にいくつかあって行ったこともある。
が、ここは初めてだった。




もうひとつ、都麻津姫を祀る高積神社(下宮)。
019.jpg 




山の上にあるという上宮をはじめて目指した。
020.jpg
石柱には「高積神社 自御本殿 是八町」とあった。
という字には「歩いて行く」という意味があるらしい。ここから歩いて八町ということか。



コンクリートの坂道が続く。この坂はきつい。特に下りがきつかった。
021.jpg 




どうやら近づいたらしい。少し手前でコンクリートは切れていた。
022.jpg 




梵字が彫られた石柱群。分岐点らしい。
ここから左に行くと神社。右は城ケ峰で和佐山城(1356年)跡があるそうな。
027.jpg 




分岐点からはすぐ、石垣の横を通り抜ける。右は崖。
023.jpg 



これ以上さがれなかったので、こんな写真に。
024.jpg 




よく手入れされている。
025.jpg
今回調べてみると、
この高積神社も伊太祁曽神社と同様、元々は今の日前宮の地にあったらしい。




紀の国は、木の国。紀氏も、もともとは百済の木氏かもしれない。
026.jpg 

ヤマト王権が強大になる前
紀ノ川、有田川、熊野川の一帯は
出雲神を奉じる民のクニだったんだなぁ
とあらためて思った。



004豪族・紀氏の墓



わかやま歴史物語ストーリー004は

国内最大規模!豪族・紀氏の墓とも伝えられる「岩橋千塚古墳」へ

モデルコースとして紹介されているのは日前宮、岩橋千塚古墳群、鳴滝遺跡など。
なお、紀氏や日前宮のことは複雑怪奇で訳が分からないので、悪しからず。


日前神宮國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)。
総称して日前宮(にちぜんぐう)。

祭神の日前大神國懸大神には、天照大神と同様に神階がない。 
この3柱のみが神階のない(位階を超越した)別格の神とされている。
いったいどういう神なのか?




ニギハヤヒに随従した天道根命(あめのみちねのみこと)が 
日前宮宮司、紀氏の祖とされ、「神別の紀氏」と呼ばれる。








紀氏と天皇家の血を受け継いだのが武内宿祢。
皇別の紀氏」と呼ばれる系統になる。







最近になって、この中央部分の奥に灯篭があることに気づいた。
どうやら建物跡があって、祭祀が行われていたらしい。
この中央部分が、左右より大切な場所だったと思える。

紀氏の系譜を神代までさかのぼると、カミムスヒ、あるいはスサノオ
にたどりつくらしい。ここに祀られていたのは紀伊国に居たとされる
スサノオの子、五十猛命イソタケル)かもしれない。
元々はここにあったらしい伊太祁曽神社の祭神だ。





686年、天武天皇が病気回復祈願のため奉幣を行ったと書記にあるらしい。
そして、その頃に日前神宮があったかどうかは不明のようだ。

天道根命の伝承からし國懸大神ニギハヤヒとも考えられる。 





日前大神は、天照大神と同一視される。それ以上のことは分からない。






名草姫とは、神武に誅された名草戸畔のことだろう。







ちゃんと、天道根命を祀っている。



出雲大社は社殿が南向き、ご神体は西向きなのは有名。
日前宮も社殿は南向きだが、ご神体は東向きだということを知った。






岩橋千塚古墳群。日前宮の東にあって、そう離れてはいない。







直進と書いてあるが、奥まったところをほぼ直角に右へ曲がる。







資料館。松下(幸之助)記念資料館というらしい。







資料館の一階部分を抜ける。向こうのお山は古墳だらけ。







お山の登り口にある石碑。







国の特別史跡が約400基、総数は冊子によると850基を超えるとも。








散歩のときはいつも舗装道路を登るが、この日は横道に入った。







冊子の表現を借りると、豪族「紀氏」の墓域、ということになる。

石梁(いしはり)と石棚がある横穴式石室、ここにしかないらしい。
馬具や鉄槍などが出土した。神別の紀氏も戦をしたのだろうか?





板状の石を根気よく積み上げてある。







他に誰もいなかった。古代を歩いている気分になった。
造墳の期間は100年ほどで、6世紀末に終わっているらしい。
全国的には7世紀中頃まで続くが、何かあったのだろうか?





日本一密集した古墳群でもあるらしい。



紀氏って何?と問われたら、とりあえず紀貫之というだろう。
大豪族ともいわれながら、地味な感じは否めない。
馬子や守屋や不比等みたいに目立つキャラがいないからか。

神階を持たない別格の神を祀り
天皇家に次ぐほどの古い家系を守り続けている紀氏。

あなた方は一体何者なんでしょうか?


003有間皇子と藤白坂



わかやま歴史物語のストーリー003のテーマは

「悲劇の皇子 有間皇子と藤白坂」


海南市藤白にある白神社
境内の東側に駐車場があって、すぐ横の鳥居から入る。







熊野古道、藤白王子跡でもある。

建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇が催された藤白王子和歌会が有名で
その時の「熊野懐紙」御宸翰(ごしんかん)は国宝となっている・・・
というようなことが書かれている。


これがその書のようだが、まったく読めない。






神職鈴木氏の氏神ニギハヤヒを祀る。






鈴木氏は熊野から来た。






境内西側。ここから熊野古道に出る。





境内西の端にある有間皇子神社。


640年有間皇子誕生 。父は 軽皇子、母は阿倍氏の小足媛。

645年乙巳の変軽皇子が即位して孝徳天皇となる。
中大兄皇子が皇太子となりその妹、間人皇女が孝徳皇后となる。
有間皇子5歳。結果的に、人生が決まった瞬間だったのかもしれない。

652年いわゆる前期難波宮完成。
翌653年、中大兄皇子、間人皇女ら板蓋宮に戻る。
有間皇子は難波に居たのか、それとも?

654年孝徳天皇崩御。翌655年、斉明天皇(皇極重祚)即位。
孝徳天皇がひとり難波の地で死去した時、有間皇子は15歳。後ろ盾なし。
父の死後、心の病を癒すためと称し牟婁の湯(白浜)に赴いた・・・・・

658年謀反を疑われ有間皇子処刑。19歳。
罠に嵌ったのか、それとも本当に謀反を企てたのか?



処刑地とされる藤白坂。






斉明天皇から見れば、有間皇子は弟(孝徳)の子。
処刑に関して、斉明天皇がどういう姿勢だったのかは知らない。

蘇我赤兄有間皇子を調略した、ということになっている。 
単独説もあるが、中大兄皇子に命じられたという通説がもっともだと思う。





有間皇子が詠んだとされる有名な二首がある。


①磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

②家にあらば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る


処刑に先んじて磐代(いわしろ・みなべ町)の地で詠んだとされている。
が、後世の人物が詠んだという説もあれば
湯治に赴いた時のものだという説もある。




以前、御坊市にある岩内(いわうち)古墳を見に行った。





副葬品が、地方豪族ではあり得ない身分の高さを示していること。
そして、有間皇子の側近で皇子と共に処刑された塩屋連このしろ
が治めていた土地にあることが有間皇子伝承古墳とされる理由らしい。



斉明天皇や中大兄が亡くなってから、塩屋氏が自らの土地に
皇子にふさわしい古墳を造ったというのが故森浩一氏の見解らしい。






藤白神社でちちんぷいぷい



徳川三代将軍・徳川家光の乳母
春日局は幼い家光が泣いたとき
「知仁武勇は御代の御宝」 
(ちじんぶゆうはごよのおんたから)
と言ってあやしたらしい。 

このちじんぶゆう」がちちんぷいぷい」の語源だという説がある。

ちちんぷいぷい いたいのいたいの とんでけ~




昨日(2019.2.12)
わかやま歴史物語の第3ストーリー
「悲劇の皇子 有間皇子と藤白坂」のネタ写真を撮りに藤白神社へ行った。



一見して「何かの取材だな」と分かった。

ブルーのダウンジャケットの人が近づいてきた。

「・・・・・・え・あぁ・・!」


なんとなく、テレワカ(テレビ和歌山)だと思っていた。
それが、えっ・・・ちちんぷいぷいが?なんでここに?
少しうろたえていたのかもしれない。


「あと五分くらいで生放送します。映っていただいてもいいですよ」
「・・・あ、いや、逃げます・・・」


ちちんぷいぷいの様子を気にしながら散策した。
アナウンサーの生の声が聞こえて来た。始まった。

そういえば、生放送とか言ってたなぁ。
車に戻ってテレビをつけた。ホントに生中継だ。
スタジオにはいつものメンバーがいて会話してる。
あれ、こっちに来てる、近づいてる。来た!

助手席の方を見ると真横を撮影クルーが歩いてる。
テレビに目をやると画面いっぱいにマイカーが映って・・
車内の様子は・・・見えなかった。


最近ちょっと話題になってる鈴木屋敷に行ったようだった。



以下は2016年5月の写真

奇しくも昨日、この写真の立ち位置に車を停めていた。
撮影クルーは左(藤白神社)から右(鈴木屋敷)へ歩いて行った。






今は佐藤姓が一番多くて、鈴木姓は2番目だとか。






こういう状態だった。


今は解体工事が終了し、復元費用を集めているようだ。
今朝の朝刊に、スズキ自動車が寄付をしたという記事があった。



歴史ある場所なのです。




それにしても不思議だったのが
テレビ中継車らしきものが見当たらなかったこと。
カメラマンが一人で、他に機材を持った人もいなかった。

調べてみた。
今は、リュック一つくらいの機材で高画質の中継ができるらしい。
知らなんだ。



002加太は修験の入口




殺風景やなぁと思いながら眺めた工事中の和歌山市駅
地元ではシエキで通じる。ちなみに和歌山駅はワエキ。

南海本線とJR紀勢本線の終点駅。南海加太線の始発駅。
南海が管轄していて、JR西日本の駅員はいないらしい。





工事用の仮設塀にあった写真。この駅舎は知らない。生まれていない。 

1903年~1945年





和歌山市は大都会、丸正百貨店はパラダイスだった幼い頃の駅舎。

▲1955年~1973年




成人し、社会人となった頃の駅。

▲1973年~2017年





仮設塀の前に佇み、しばし来し方を想う前期高齢者にならんとする男。
・・・そんなことより、加太行きの切符を買おう。







めでたいでんしゃはピンク色「さち」と水色「かい」の2種類あるらしい。







吊り革の長さが違う。何を意図したのだろうか。意匠?身長?







2両編成。出発時にはほぼ満席になっていた。







終点、加太駅。




わかやま歴史物語では「修験道の開祖、役行者大峰山の修業前に加太を訪れたことから加太が修験道発祥の地ともいわれている」と紹介している。


山伏の存在は知っている。
修験道はあらためて調べても深すぎて分からない。
ましてや加太と修験道?イメージ的には、修験は山、加太は海。
葛城二十八宿経塚というのがヒントかもしれない。




駅から海岸方面に向かう。

女性の観光客が多かった。





旧加太警察署庁舎。

現地の説明板では大正初期の築とあった。後、民宿の時期もあったらしい。





車は右方向。歩きは左方向。もちろん地元の車は左にも曲がる。



葛城二十八宿経塚というのは 
役行者法華経八巻二十八品を埋葬したとされる経塚
で、もちろん行場でもあるらしい。

その第一番目が友ヶ島
そこから和泉山脈沿いを東へ




一か所だけ明確に決めていた目的地がおそらくこの左手の山。







当たり。役行者堂。







右の石段を登ってゆく。左に赤い掃除機が・・・残念。







役行者飛鳥時代の人。修験道平安時代に盛んになったらしい。







修験道神仏習合の信仰だが、仏教色が強い。そのイメージは分かる。







沖合右手が地ノ島、左手が沖ノ島。総称して友ヶ島。経塚は沖ノ島にある。







せっかくなので淡嶋神社へ行った。女性観光客のお目当てはここらしい。







この日、周辺のお店は休みだった。けれど
冊子に載っている先田商店だけは開いていた。海鮮浜焼きが旨いらしい。







春日神社。
役行者が当社を勧請して守護神としたことから
今でも毎年4月に聖護院門跡が大勢の山伏僧と参拝する、らしい。

もう一つ古い由緒が伝わる。
神武東征の際、紀国造氏の祖である天道根命が二つの神宝を奉じて
加太浦に上陸し、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まる。
二つの神宝、神鏡と日矛は日前神宮・国懸神宮のご神体となった。





大勢の釣り人がいた。




加太は
淡嶋神社神功皇后でもいいし、春日神社の神武東征でもいい
と思った。

けれど「わかやま歴史物語100」は修験道ストーリーにした。 
取捨選択、思い切り、想い入れがないとそうはいかないだろう
という気がした。