007築城当時は真っ黒?
わかやま歴史物語ストーリー007の表題は
前回からの話を受け継ぐと、太田城の水攻めは1585年。同じ年
翌1586年には但馬竹田城の城主だった桑名重晴を城代に据えた。
と、ここまで書いて歴史物語の冊子を見ると、「田中善蔵の碑」というのがでてきた。
知らないので、調べるしかない。
お城の南西、扇之芝は馬場だったらしい。右奥に追廻門がかすかに見える。
追廻門。
立て直しの中心人物が田中善蔵だったということだろう。
俸禄削減案が決定的だったのか慶応3年、追廻門から扇之芝あたりで暗殺
歴史物語の冊子はこのあと寺鐘堂を紹介している。
三年坂を挟んでお城の南側にある。
ここから冊子のコースから外れてお城から南下した。突き当りは寺町通り。
途中、徳川吉宗生誕地の碑があった。
和歌山城と城下町、となると吉宗は外せない。
少し行くと、報恩寺というお寺がある。
寺町通りに突き当たったすぐ左手に恵運寺(えうんじ)というお寺がある。
最近整備されたのだろうか? う~ん、珍しい書体。
この由緒書きの内容は、中々興味深い。
真ん中あたりから「当寺ゆかりの主な人物」がある。
どうも開創の山本図書正春という人が山本勘助ゆかりの人らしい。
このお寺に来たのは、「ゆかりの人物」三番目にある名取三十郎が記憶にあったから。
何年か前(調べると2012年)に、このお寺で名取三十郎正澄の墓が見つかった
というニュースがあった。日本三大忍術伝書の一つ「正忍記」の著者だという。
左側の説明書き(写真では光って見えない)に、正忍記の一節があった。
「悟りにくいもの、それは人の心である」
三十郎の祖父が、山本勘助から陣法築城などを学んだ、とも説明されている。
寺町通りからまたお城の方に戻ってきた。県立博物館の背後(横手?)に迷い込んだ。
気付く人はそう多くはないと思う場所。
お城は賑わっていた。船がこの橋の下を通るのを初めて見た。
また船がやってきた。
今回のテーマは和歌山城とその城下町、だった。
白亜の天守になったのは十代藩主治宝(はるとみ)の時代。
今見えるこの連立天守は1958年の再建ということです。
006雑賀孫市の合戦の舞台をたどる
わかやま歴史物語ストーリ-006の表題は
普段、戦国時代のことは積極的に調べたりしない。
雑賀孫市も名前ぐらい知ってはいるが、ほぼ何も知らない。
今回はいい機会だから調べてみる。
いわゆる雑賀衆とは、五組(五つの地域)の集まりを指す言葉らしい。
大雑把にその地域を記すと次のようになる。ほぼ今の和歌山市。
十ケ郷 中郷 (根来衆)
<西>-------------------紀ノ川-----------------------------------------<東>
雑賀荘 社家郷(宮郷)
南郷
雑賀五組が一枚岩かというと、そうではない。むしろ争っていた。
雑賀荘にあったのが雑賀鈴木氏。鈴木姓の発祥とされる藤白鈴木氏の支流で、
だとすれば熊野が本貫地であり、八咫烏の家紋・旗印を掲げたのも肯ける。
冊子のモデルコース順に追っかけようとしたが、なんかしっくりこないので
時系列に追っかけてみることにした。バックボーンには大坂石山合戦がある。
1577年、雑賀三組(社家郷、中郷、南郷)が信長に寝返る。
これにより信長軍が雑賀二組(雑賀荘、十ケ郷)を攻めた。
紀ノ川の北にある(当時の十ケ郷か)ショッピングセンターの裏駐車場。
目指すものは左フェンスの奥の方にあった。
中野城跡。塀の向こうは普通の民家のようだ。
説明書きには、当時の銃弾が出土している、とあった。
一方、風吹峠(かざふきとうげ)を進んだ軍は東側から雑賀城を攻めた。
前方の森が城跡。
麓にある城跡山公園から登った。
今は寺のお堂があるのみ。
麓一帯が城下町だったらしい。
鈴木孫一率いる鉄砲隊、弓隊に信長軍は損害を受けて一旦退去した。
が、結局一定の条件をのんで雑賀衆は降伏し、信長軍は兵を引いたらしい。
紀三井寺や海南方面が見える。
近くにある矢宮神社。神武東征でも登場した八咫烏を祀る神社。
信長軍を退散させたあと、孫一らはここで勝利の「雑賀踊り」を踊ったと伝わる。
左の石柱には「紀伊国雑賀庄総社」とある。
翌1578年、信長方についた雑賀三組を孫一は許す筈もなく
中郷、南郷を味方につけ、残る社家郷を攻めた。第一次太田城の戦と云われる。
この時の城主は社家郷の太田左近、紀氏の支流だろうか。
来迎寺。太田城本丸跡と伝わる。
この第一次の戦では、再度信長も動いて孫一を攻める。
が孫一も引かず膠着状態で結局和睦したらしい。
1580年、信長と大坂本願寺は和睦した。
境内に鷺森幼稚園がある。
ちょうど園児のお出迎えの時間帯で、境内は車だらけだった。
1582年5月、信長は三男の信孝に命じて鷺森を攻めさせたらしい。
顕如と孫一が必死に応戦しなんとか持ちこたえる。
1582年6月、信長は本能寺に消えた。
孫一は三度にわたって信長勢と戦い、負けはしなかった。
1584年、秀吉と家康の戦い(小牧・長久手)のとき
という事らしいが、定かでない部分もあるらしい。
1585年、秀吉は連合軍を攻めた。根来寺が焼かれたのがこの時。
孫一は秀吉側についている。秀吉側についたのは顕如のとりなしに
よるものらしい。
太田左近らはこのとき自刃した。
和歌山市平井というところにある蓮乗寺。平井は当時の十ケ郷で、孫一の本拠とされる。
雑賀孫市という名は、代々継承されたものらしい。
ここに記した孫市は、初代か二代目か?。お墓がこの寺にあるという。
入りづらくて、外から撮った。
雑賀は紀州惣国ともよばれ
つまりは自治的協同組織で、高い軍事力(特に鉄砲)を持った傭兵集団だった。
忠誠を誓う主君を持たず
信長から始まった天下統一への流れに乗る気分を持ち得なかったのだろう。
孫一の信心は一貫して浄土真宗にあった。
そのことを考えると孫一の行動がわかる様な気がする。
和歌山市駅近くの宇治交差点。
この交差点の一角に「雑賀鉢発祥の地」と題した案内板がある。
雑賀鉢とは、雑賀衆がかぶった兜のことらしい。
005紀の国の由来をたどる
ヤフーからの引っ越し族、はじめての投稿。
紀の国の由来をたどる ~伊太祁曽神社と木祭り~
紀の国の由来は伊太祁曽神社にあり!ということだろうか。
駅を出て南へ。すぐ民家の向こうに一の鳥居が見えてくる。
鳥居や社殿は東向き。つまり西(出雲?)を向いて拝むことになる。
新羅のソシモリから出雲や九州を経て木の国に鎮まったとされる。
その神が棲む国なので「木の国」、というのが今回のストーリーのようだ。
けれど、それより気になるのがやっぱりスサノオ。
この近くに須佐という地名が残っているし、有田の須佐神社との繋がりも深い。
イタケルと一緒に木を植えて回った妹の都麻津姫を祀る神社を探した。
前方に見える森だろう。伊太祁曽神社から北西に数百メートルくらい。
文字がありそうな処を探したけれど、きれいに剥がれている。
細い道を少し登る。灯篭が見えた。
小さな祠があった。
が、ここは初めてだった。
もうひとつ、都麻津姫を祀る高積神社(下宮)。
山の上にあるという上宮をはじめて目指した。
迠という字には「歩いて行く」という意味があるらしい。ここから歩いて八町ということか。
コンクリートの坂道が続く。この坂はきつい。特に下りがきつかった。
どうやら近づいたらしい。少し手前でコンクリートは切れていた。
梵字が彫られた石柱群。分岐点らしい。
ここから左に行くと神社。右は城ケ峰で和佐山城(1356年)跡があるそうな。
分岐点からはすぐ、石垣の横を通り抜ける。右は崖。
これ以上さがれなかったので、こんな写真に。
よく手入れされている。
紀の国は、木の国。紀氏も、もともとは百済の木氏かもしれない。
ヤマト王権が強大になる前
紀ノ川、有田川、熊野川の一帯は
出雲神を奉じる民のクニだったんだなぁ
とあらためて思った。
004豪族・紀氏の墓
わかやま歴史物語ストーリー004は
国内最大規模!豪族・紀氏の墓とも伝えられる「岩橋千塚古墳」へ
モデルコースとして紹介されているのは日前宮、岩橋千塚古墳群、鳴滝遺跡など。
なお、紀氏や日前宮のことは複雑怪奇で訳が分からないので、悪しからず。
総称して日前宮(にちぜんぐう)。
いったいどういう神なのか?
紀氏と天皇家の血を受け継いだのが武内宿祢。
最近になって、この中央部分の奥に灯篭があることに気づいた。
この中央部分が、左右より大切な場所だったと思える。
紀氏の系譜を神代までさかのぼると、カミムスヒ、あるいはスサノオ
にたどりつくらしい。ここに祀られていたのは紀伊国に居たとされる
元々はここにあったらしい伊太祁曽神社の祭神だ。
國懸神宮。
686年、天武天皇が病気回復祈願のため奉幣を行ったと書記にあるらしい。
そして、その頃に日前神宮があったかどうかは不明のようだ。
日前神宮。
名草姫とは、神武に誅された名草戸畔のことだろう。
ちゃんと、天道根命を祀っている。
出雲大社は社殿が南向き、ご神体は西向きなのは有名。
日前宮も社殿は南向きだが、ご神体は東向きだということを知った。
岩橋千塚古墳群。日前宮の東にあって、そう離れてはいない。
直進と書いてあるが、奥まったところをほぼ直角に右へ曲がる。
資料館。松下(幸之助)記念資料館というらしい。
資料館の一階部分を抜ける。向こうのお山は古墳だらけ。
お山の登り口にある石碑。
国の特別史跡が約400基、総数は冊子によると850基を超えるとも。
冊子の表現を借りると、豪族「紀氏」の墓域、ということになる。
馬具や鉄槍などが出土した。神別の紀氏も戦をしたのだろうか?
板状の石を根気よく積み上げてある。
造墳の期間は100年ほどで、6世紀末に終わっているらしい。
全国的には7世紀中頃まで続くが、何かあったのだろうか?
日本一密集した古墳群でもあるらしい。
紀氏って何?と問われたら、とりあえず紀貫之というだろう。
大豪族ともいわれながら、地味な感じは否めない。
馬子や守屋や不比等みたいに目立つキャラがいないからか。
神階を持たない別格の神を祀り
天皇家に次ぐほどの古い家系を守り続けている紀氏。
あなた方は一体何者なんでしょうか?
003有間皇子と藤白坂
わかやま歴史物語のストーリー003のテーマは
「悲劇の皇子 有間皇子と藤白坂」
境内の東側に駐車場があって、すぐ横の鳥居から入る。
その時の「熊野懐紙」御宸翰(ごしんかん)は国宝となっている・・・
というようなことが書かれている。
これがその書のようだが、まったく読めない。
鈴木氏は熊野から来た。
境内西側。ここから熊野古道に出る。
境内西の端にある有間皇子神社。
有間皇子5歳。結果的に、人生が決まった瞬間だったのかもしれない。
652年いわゆる前期難波宮完成。
有間皇子は難波に居たのか、それとも?
父の死後、心の病を癒すためと称し牟婁の湯(白浜)に赴いた・・・・・
658年謀反を疑われ有間皇子処刑。19歳。
罠に嵌ったのか、それとも本当に謀反を企てたのか?
処刑地とされる藤白坂。
処刑に関して、斉明天皇がどういう姿勢だったのかは知らない。
有間皇子が詠んだとされる有名な二首がある。
②家にあらば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る
処刑に先んじて磐代(いわしろ・みなべ町)の地で詠んだとされている。
が、後世の人物が詠んだという説もあれば
湯治に赴いた時のものだという説もある。
以前、御坊市にある岩内(いわうち)古墳を見に行った。
副葬品が、地方豪族ではあり得ない身分の高さを示していること。
斉明天皇や中大兄が亡くなってから、塩屋氏が自らの土地に
皇子にふさわしい古墳を造ったというのが故森浩一氏の見解らしい。
藤白神社でちちんぷいぷい
徳川三代将軍・徳川家光の乳母
春日局は幼い家光が泣いたとき
「知仁武勇は御代の御宝」
(ちじんぶゆうはごよのおんたから)
と言ってあやしたらしい。
この「ちじんぶゆう」が「ちちんぷいぷい」の語源だという説がある。
ちちんぷいぷい いたいのいたいの とんでけ~
昨日(2019.2.12)
わかやま歴史物語の第3ストーリー
一見して「何かの取材だな」と分かった。
ブルーのダウンジャケットの人が近づいてきた。
「・・・・・・え・あぁ・・!」
なんとなく、テレワカ(テレビ和歌山)だと思っていた。
それが、えっ・・・ちちんぷいぷいが?なんでここに?
少しうろたえていたのかもしれない。
「あと五分くらいで生放送します。映っていただいてもいいですよ」
「・・・あ、いや、逃げます・・・」
ちちんぷいぷいの様子を気にしながら散策した。
アナウンサーの生の声が聞こえて来た。始まった。
そういえば、生放送とか言ってたなぁ。
車に戻ってテレビをつけた。ホントに生中継だ。
スタジオにはいつものメンバーがいて会話してる。
あれ、こっちに来てる、近づいてる。来た!
助手席の方を見ると真横を撮影クルーが歩いてる。
テレビに目をやると画面いっぱいにマイカーが映って・・
車内の様子は・・・見えなかった。
最近ちょっと話題になってる鈴木屋敷に行ったようだった。
以下は2016年5月の写真
奇しくも昨日、この写真の立ち位置に車を停めていた。
撮影クルーは左(藤白神社)から右(鈴木屋敷)へ歩いて行った。
今は佐藤姓が一番多くて、鈴木姓は2番目だとか。
こういう状態だった。
今は解体工事が終了し、復元費用を集めているようだ。
今朝の朝刊に、スズキ自動車が寄付をしたという記事があった。
歴史ある場所なのです。
それにしても不思議だったのが
テレビ中継車らしきものが見当たらなかったこと。
カメラマンが一人で、他に機材を持った人もいなかった。
調べてみた。
今は、リュック一つくらいの機材で高画質の中継ができるらしい。
知らなんだ。
002加太は修験の入口
殺風景やなぁと思いながら眺めた工事中の和歌山市駅。
地元ではシエキで通じる。ちなみに和歌山駅はワエキ。
工事用の仮設塀にあった写真。この駅舎は知らない。生まれていない。
和歌山市は大都会、丸正百貨店はパラダイスだった幼い頃の駅舎。
成人し、社会人となった頃の駅。
仮設塀の前に佇み、しばし来し方を想う前期高齢者にならんとする男。
・・・そんなことより、加太行きの切符を買おう。
めでたいでんしゃはピンク色「さち」と水色「かい」の2種類あるらしい。
吊り革の長さが違う。何を意図したのだろうか。意匠?身長?
2両編成。出発時にはほぼ満席になっていた。
終点、加太駅。
山伏の存在は知っている。
修験道はあらためて調べても深すぎて分からない。
ましてや加太と修験道?イメージ的には、修験は山、加太は海。
葛城二十八宿経塚というのがヒントかもしれない。
駅から海岸方面に向かう。
旧加太警察署庁舎。
車は右方向。歩きは左方向。もちろん地元の車は左にも曲がる。
葛城二十八宿経塚というのは
で、もちろん行場でもあるらしい。
その第一番目が友ヶ島。
そこから和泉山脈沿いを東へ
一か所だけ明確に決めていた目的地がおそらくこの左手の山。
当たり。役行者堂。
右の石段を登ってゆく。左に赤い掃除機が・・・残念。
せっかくなので淡嶋神社へ行った。女性観光客のお目当てはここらしい。
この日、周辺のお店は休みだった。けれど
冊子に載っている先田商店だけは開いていた。海鮮浜焼きが旨いらしい。
春日神社。
役行者が当社を勧請して守護神としたことから
今でも毎年4月に聖護院門跡が大勢の山伏僧と参拝する、らしい。
神武東征の際、紀国造氏の祖である天道根命が二つの神宝を奉じて
加太浦に上陸し、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まる。
二つの神宝、神鏡と日矛は日前神宮・国懸神宮のご神体となった。
大勢の釣り人がいた。
加太は
と思った。
けれど「わかやま歴史物語100」は修験道ストーリーにした。
取捨選択、思い切り、想い入れがないとそうはいかないだろう
という気がした。