橋本市を散策していた(後編)


2013年5月のことだった。前編から続く。

この高野街道を歩いたのではなく、横切った、のだと記憶している。
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よおく見ると不思議な木だ。
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これは印象的な建造物だった。
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古いお屋敷だ。
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これを観に来たのか?いや、違う気がする。
だけど、大和街道を歩いていたんだと気付いた。
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ここはどこ?・・・この写真を眺めても思い出せない。
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説明書きの写真を撮ってあった。「相賀(おうが)大神社」らしい。



調べると、藤原頼道が高野参詣の折立ち寄ったとか
鎌倉時代根来寺領だったとか、本殿裏には「市脇相賀古墳群」があるとか。
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そして、川を渡ったのか。
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この写真で思い出した。線路右側の小高い木立が目的地だった。
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陵山古墳と、もうひとつの目的地はここだった。
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銭坂城跡。段になっているのは土塁の跡らしい。
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この城跡のことをネット調べていて、
和歌山県の歴史散歩」というワードを見つけた。
そうだ、この本を見て橋本市にやってきたのだった。
とすると、相賀大神社も目的地だったのかもしれない。




この城は、室町時代南北朝時代)に生地氏(おんじうじ)が築城した。
生地氏は坂上田村麻呂の子孫という伝もあり、楠木正成らと討幕軍として戦い
その後は南朝側についたらしい。
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件の本によれば、銭坂城とは
相賀大神社の市場で徴収していた通行税の徴収地を
当地に移したことから付けられた俗称・・・・・・
とあった。
生地城あるいは相賀新城という呼び名があるらしい。



一瞬片側2車線に見えたが、いや違う。右側は駐車場だ。
(背中合わせの車2台が写っていたので、あれっ?と思った。)
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警備会社の人たちだろうか。手旗信号の練習?風景。
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どこで撮ったか覚えていないギョロメ(に見えるでしょ)。
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6年前のことだ。
写真を見て、ああここかと甦るスポットは幾つかあるが
歩いた道筋は思い出せない。
いや、車をどこかに停めて歩いたのか、
はたまたバイクだったのか、それも全く記憶にない。
オーマイガー!




橋本市を散策していた(前編)


2013年5月のフォルダーにあった橋本市の写真たち。
当時の記事が見当たらないので文字通りお蔵入りだった。


橋本市の駅周辺だと思われる。
「ほんまち」だから昔も今も(?)町の中心なんだろう。
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どこをどう行ったかまったく覚えていない。
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ああ、このお店。風情があっていいなぁ、と感じたのを思い出した。
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この「醫院」という文字は今やめったに見られない。
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JR橋本駅にやってきた、ようだ。
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駅舎にかかっていた写真。お二人とも橋本市の生まれ。
「あなたが市民に夢と希望を与えてくれた」と書いてあります。ha007.jpg
左、兵藤秀子さん。旧姓は前畑、あの「前畑がんばれ」の前畑さん。
1936年、ベルリンオリンピック平泳ぎ200mで金メダル。
右、古川勝さん。実はあまり知りませんでした。
1956年、メルボルンオリンピック平泳ぎ200mで金メダル。





おそらく駅裏の道から撮った「天空」(南海電車)。
橋本駅極楽橋駅を結ぶ高野山への特別列車らしい。
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そうだ、思い出した。目的地のひとつがここだった。
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丸山公園というところだが、陵山(みささぎやま)古墳というのがある。
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この古墳は、横穴式円墳で直径約46m、西暦500年前後と考えられ
横穴式石室としては極めて速い段階のもので
周りは水濠だったと説明書きにあった。
勾玉や何種類かの鉄製品が出土した記録もあるらしい。




そうそう、お猿さんがいてビックリしたのだった。
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丸山公園からどこかに向かったようだ。どの辺りかわからない。
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この店は覚えている。カラオケの声が道まで聞こえていた。
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ここまで書いてきても、写真が結構残っている。
前編、後編に分けることにしよう。
つづく。



賀名生の里


5月。
新緑の季節に、昔は何してたんだろう?とパソコンをのぞいていると、
2012年5月の写真フォルダーにちょっと気になる写真を発見した。

昔の写真をネタにした記事も悪くないなぁ、そう思い立って
「蔵出し」というカテゴリーで眠っている写真を引っ張り出すことにした。


そうだった。賀名生と書いて「あのう」と読んだ。
西吉野村と書いてある。今もそうかな?
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これが皇居跡とされる建物だった。
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やっぱり改元のせいだろうな。皇居という文字に反応した。
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南北朝時代とは、1336年~1392年を指すらしい。約57年間。
1336年、後醍醐天皇がこの地にやってきた。当時の地名は穴生(あなう)。
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穴生という地名は、後村上天皇が1352年「願いが叶って目出度い」
と言ったことから「加名生(かなう)」になり、それは恐れ多いという
ことで「賀名生」という文字があてられ、明治になって読みは「あのう」
と決められたらしい。ため息がでるような話ではある。
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この美容室がどこら辺にあったのか、まったく覚えていない。
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後村上天皇が「願いが叶って目出度い」と言ったのは
足利政権の内紛(観応の擾乱)によって
年号南朝のものに統一(正平一統)されたから、らしい。


御所駅前散歩 プチ


奈良の御所(ごせ)駅前の街並みが面白そうなので訪れた。
市役所から駅(JRと近鉄がある)方向に向かった。
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この様な立地の神社は珍しいと思う。全国にはたくさんあるのかな?
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白壁と板塀、まちがいなくカメラを向ける。
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この景色、初めてなのに懐かしい。
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そして商店街で不意に見つけた「環濠」。
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調べてみると、室町時代に寺内環濠ができたのが始まりらしい。
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中を見ると喫茶店でないのは明らか。
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商店街から横道を見る。こういうのあったよなぁ。
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これはすごい、と思った。なんでこんなに綺麗に残っているのか不思議だった。
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商店街を抜けて踏切を渡る。もうひとつ商店街があった。
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ここはもう単なる道、に思える。
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引き返して駅に寄った。
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見覚え聞き覚えのある銘柄だ。
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行者街道は読める。その下は?
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実は、商店街に入る手前で右ふくらはぎの痛みが再発した。
もっと見て回りたかったけれどこれが限界とあきらめた。
表題の プチ とはそういう意味で、ほんのさわりという意味で・・・






008全国に轟く紀州流土木工法


細々と「わかやま歴史物語」を追っかけている。ストーリー008の表題は

全国に轟く紀州流土木工法!亀池と井沢弥惣兵衛の遺徳を偲ぶ



亀池には昔行ったことがある。調べると2010年1月、随分と前だった。
久しぶりに訪問した。ここがメインのエントランスだろう。
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「生石高原県立自然公園・亀池」というのが正式名称で、花見もできる。
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池のほぼ中央にある島に渡ることにした。
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島には双青閣という建物がある。
鉄製のつり橋で木材は使われていない。一人でもよく揺れた。
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大正時代、紀州徳川家第15代当主の頼倫(よりみち)が
和歌浦東照宮の下に建てたもので、時を経て今ここに移築されている。
ごく普通に見えるが登録有形文化財
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つり橋に揺られながら撮った亀池。
周囲約4キロの灌漑用池で、1710年に3か月間で作ったらしい。驚異的な速さ。
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井沢弥惣兵衛は1663年、今の海南市豪農の家に生まれ
1690年、紀州藩の勘定方に就任したらしい。 
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1696年、弥惣兵衛は土木技術者の大畑才蔵を藩に呼んだ。
その才蔵は紀の川北岸に藤崎井用水路や小田井用水路を造り
この亀池の工事にも関わった。弥惣兵衛47歳、才蔵68歳。 
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弥惣兵衛は、将軍になった吉宗に呼ばれて各地で灌漑工事や新田開発を行ったらしい。
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水辺の石積みを見ていると、当時の息遣いが聞こえる気がした。
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冊子に載っているスポットのひとつ、宗光寺。
左の石柱には「井沢弥惣兵衛 紀州 菩提寺」とあった。
東京千代田区にお墓があるらしい。
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これも冊子にあった資料館。なんでこんな処に?というような場所にある。
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もうひとつのスポット、法然寺。
弥惣兵衛も深く敬った寺、と冊子にありました。
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それまでの関東流と呼ばれる土木工事は
自然を利用(川の流れはそのままに)した工法で
紀州流は流れをコントロール(直線的に治す)する工法だったようです。

水路の高低差を水門によってコントロール
船を上下させる閘門(こうもん)式運河といえばパナマ運河
それができる約180年前に弥惣兵衛は閘門式運河を造ったそうな。

映画「翔んで埼玉」はバカらしくも面白かった。
その埼玉に弥惣兵衛の功績を称える像があるらしい。


お寺の石柱に驚いた


欲しいものがあって、となり町のホームセンターへ行った。
欲しいものはすぐ見つかった。荷物を車に置いて散歩することにした。



国道24号線。
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JR和歌山線が国道の下を通る。
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古そうなお家の向こうにお寺がありそう。
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この屋根と屋根の間にある細長い物。昔、田植えに使った道具では。
✖の前に人が並んで苗を植えては前(手前?)に転がす、だったかな。
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この屋根の造りは何ていうのだろう?
あの道具は何ていうのだろう?




蓮乗寺というお寺があった。
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鼓楼、浄土真宗かな。
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石柱になにやら書いてある。読んで驚いた。
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当寺には1506年霜月二十八日付、
実如上人自筆の御念比(ごねんごろ?)なる裏書のある「方便法身尊像」が所蔵されている。

実如上人は、蓮如の子で浄土真宗本願寺派第9世宗主。
その偉い人から像をもらったということだろうか。

続いて次の文章があった。
また、雑賀五ケ御坊の筆頭である当山には「顕如書状」をはじめ
雑賀一向一揆に関する貴重なる古文書が伝蔵されている。

ちょっと前、わかやま歴史物語で雑賀衆を調べていたので
この文章に驚いた。どういうことなんだろうか?

雑賀五ケ御坊、はじめは雑賀五組を連想したがこの一帯とは地域が違う。
根来寺の南東に位置するこの地域に五つの御坊(道場?)があったらしい。

この寺の住職、門徒たちは石山合戦に加わったという。
根来で作った鉄砲を紀ノ川経由で大坂に運んだかもしれない。

そんな紀州門徒衆や雑賀衆に宛てた顕如の書状が残っているという事だ。
秀吉による太田城攻めの前後の時期のものと思える。
その内容にふれた文章を見つけたが割愛する。すごく貴重だと思う。

うかつにも帰ってきてから気がついた。
和歌山市平井にある雑賀孫一のお寺も蓮乗寺だった。