001神武東征
和歌山県観光振興課が発行している「わかやま歴史物語スタンプラリー100」という冊子を入手したのが昨年末だった。おぉ中々いいではないか、ということで当ブログに「わかやま歴史物語100」と題した書庫を作ったのが先月。それからひと月近くが過ぎた。冊子を眺めながら段々と「これは結構手ごわいな」と思い始めて手をこまねいていたからだ。けれど、そろそろ始めなければ、はじまらない。
ストーリーの第一番目は「神武東征神話」。
はっきり「神話」と言い切っているのが気になったが、まぁいいか。
たしか宵えびすの日だった。
冊子のとおり、この神社を訪れた。
戎様と大黒様を祀る。出雲の事代主と大国主だと思う。
「聖蹟」とは文献等から地点を推定できる割合たしかな所をいうらしい。
そういう歴史的な場所に出雲神を祀ったということになる。
五瀬命を祀る竈山神社。
拝殿、本殿があってその向こうに五瀬命のお墓がある。
竈山墓。宮内庁管轄。
おみくじを木の枝に結びつけるのは、木の生育によくないのです。
冊子は、ストーリー毎に「モデルコース」を紹介している。
ちなみにこの神武東征ストーリーでは
1 水門吹上神社 ↓
2 とあるカフェ (車で5分)
3 竈山神社 (車で15分)
4 宇賀部神社 (車で20分)
5 杉尾神社 (車で10分)
6 千種神社 (車で10分)
を紹介している。なかなか親切・・・と云ってる場合ではない。
1,3は神武だが、4~6は名草戸畔(なぐさとべ)に切り替っている。
宇賀部神社。通称おこべさん。祭神はカグツチ神とされるが
名草戸畔の頭(こうべ)を祀るという伝承もある。
怒ったイザナギに「三つに切り裂かれた」と云われる。
名草戸畔は名草の女王。
神武と戦って敗れ、頭、胴、脚の3つに裂かれた。
カグツチ伝説と同じだ。
その頭を祀るのがおこべさん。
杉尾神社。通称おはらさん。名草戸畔の腹部を祀るとされる。
千種神社。通称ももくささん。名草戸畔の脚部を祀るとされる。
ももくさ、というのは古い呼び名、百草神社にまつわるらしい。
祭神は草野姫命。う~ん、知らない。
海南市指定天然記念物の楠木らしい。
わかやま歴史物語100の神武東征ストーリ-に出てくるスポットは「とあるカフェ」を除いてすべて巡った。がしかし、ひとつ気になるスポットが残っている。それは・・・
矢宮神社。
カモタケツノミ、別名八咫烏命を祀る。
八咫烏は神武をヤマトに先導したとされている。
そしてここ矢宮神社は、名草戸畔と戦った神武の陣地と伝わる。
ここで神武と名草戸畔がつながっているように思える。
わかやま歴史物語100、これからどうなることやら。
熊野古道・川辺あたり
去年の暮れだった。
↓の写真にある「川辺渡し場」まで行こうとして途中で断念していた。
妙に分岐点があって迷ったのと寒かったのと。
年が明けて再挑戦。そしてこれに気づいた。
そうだ、熊野古道にはこの埋め込みがあったのだ。
少し広い空間に出た。右手に大きなお屋敷。
熊野古道はきっとあの屋敷の前を通っている。
しばし眺めていると風情を感じる造りだった。
やっぱりお屋敷の角に道標があった。
道路の埋め込みを探して歩く。俺は犬か?何となくそう思った。
堤防が見えた。ああ、この辺りかと納得。
けれど「熊野古道を歩いてそこへ行く」のが目的だった。
やっぱりあった案内板。車道からは気付かない。
あの大きな屋敷から大坂みちを北に進んだ。
なにやら気になる標識に遭遇。
左の説明書きと思われる文字は全く読めない。
とにかく矢印方向へ戻ろう。左側の道。
入口を見つけた。
「国宝神 善女龍王尊」と読めた。ん?何か違う。
最初に見た標識は「国宝 善女龍王尊」だった。
そういうことか。この辺りに国宝があるなんて聞いたことがなかった。
ほんの少し歩いて、それらしき木立を見つけた。
この石碑は新しいようだ。
いったい何なんだろう。
台風だろう。木や石碑が傾いてるのだけは分かった。
・やっぱりよくは分からないが、どうも空海と結びつく。(雨乞いの尊)
これ以上のことは分からない。
2018年振り返り(終)
9月の続きから。
この頃は台風の被害があちこちに見られた。
いや、今でもブルーシートをよく見かける。
9月
泉佐野市を散策。
蟻通神社。オオクニヌシを祀る。
かつては熊野街道沿いにあり、「蟻の熊野詣」からその名がついたとも。
10月
はじめて行った。和歌山市の汀公園。
この公園に逃げ込んだ748人が火災による熱風で命を落としたという。
和歌山城もこのとき焼失した。
新沢千塚古墳群公園。4世紀末~7世紀とされる。
畝傍山の南西にあって・・・あ、思い出した。
橿原の考古学博物館に行った帰りに立ち寄ったのだった。
被葬者の氏族すら分からないらしい。
そして、そんなものを保持できた氏族とは・・・。
この噴水の意味がいまいち分からなかった。
11月
地元弁でいうと、どえらい人とぎょうさんの刀。
あれだけ数があると何がどうなのか分からない。
祇園の八坂神社の真っすぐな剣が印象に残った。
実は、刀より建物を見たかった。
ロダンの後ろ姿を撮る女性の後ろ姿。
お隣にある三十三間堂。
三十三間の「間」は長さではなく、柱間の数だそう。
千体の千手観音立像。これはまあ、圧巻という言葉しか浮かばない。
「通し矢」の舞台。この軒下を通すらしい。
12月
隣町の岩出市立図書館ではじめて本を借りた。
この図書館は根来寺の入り口付近にある。
ちょっと散歩しているとヤギさんに出会った。
廃業、でもなさそうな微妙な店。
すぐ北に、和佐大八郎の墓がある。三十三間堂通し矢の記録保持者。
墓石の字は摩耗していて読めなかった。
天気予報によると、この日は今年最後のいいお天気ということだった。
確かに、快晴だった。
2018年振り返り終了。
2018年振り返り(1)
今回の旅(終)
吉野ヶ里は筑紫(佐賀)平野の奥まったところ。
背振山をはさむだけで、この2か所はそう遠くない。
向こうは古羅漢といわれる山かもしれない。
ほんとに日本人は「三大」が好きらしい。
夕方、閑散、長閑。
示す記念碑らしいことが分かった。
宇佐神宮。宇佐氏は宗像氏と同族の出雲系らしい。
阿曇氏や秦氏との勢力争いがあった土地のようだ。
南北朝時代の大内弘世(ひろよ)が京を模して街づくりを行い
今も「西の京 山口」という言い方があるらしいが、そういう
雰囲気は感じられなかった。(車で通り過ぎた範囲では)
聖徳太子から大内県(あがた)を賜ったらしい。
ここはやっぱり、あの長鳴鶏につきるかな。
赤穂城。入るときは居なかった案内人らしき人が門の下に座っている。
話を聞こうと近寄ったが、その前に知り合いらしき人達がおじさんを
囲んで話をしている。割り込むタイミングがなく、渋々立ち去った。
お友達もいいが、観光客も大事にしてほしいなぁ。
下関。
今回の旅ブログ終了。
今回の旅(2)
最終の第7局が今日(2018.12.20)から 下関の春帆楼で行われる。
下関に行かなかったら春帆楼も知らなかった。いつにも増して結果が気になる。
さて旅の続き。福岡平野にある神社を巡ってから糸島平野に来た。
古代風にいうと、奴国から伊都国に入った、ということかな。
平原遺跡一号墳。副葬品には、いわゆる三種の神器がそろっていて
魏志倭人伝の記述「径百余歩」とも矛盾しないという見解などから
卑弥呼の墓ではないかといわれる。けれど現地の説明書きには天照
が埋葬されていると書いてあった。
白村江の戦のあと、海側にあったものを今の内陸部に移した
ということらしい。だから九州王朝につながるような遺物がないのか?
観世音寺。
日本最古とされる京都妙心寺の梵鐘は、ここの梵鐘と同じ型で九州で造られた。
そして、邪馬台国でもなく、九州王朝との関連性もないただのクニらしい。
だけれども、倭国大乱を生き抜いて3世紀に最盛期を迎えたクニ、
弥生時代の約700年間の歴史をもつこのクニが、ただのクニだとは思えない。
つづく