006雑賀孫市の合戦の舞台をたどる
わかやま歴史物語ストーリ-006の表題は
普段、戦国時代のことは積極的に調べたりしない。
雑賀孫市も名前ぐらい知ってはいるが、ほぼ何も知らない。
今回はいい機会だから調べてみる。
いわゆる雑賀衆とは、五組(五つの地域)の集まりを指す言葉らしい。
大雑把にその地域を記すと次のようになる。ほぼ今の和歌山市。
十ケ郷 中郷 (根来衆)
<西>-------------------紀ノ川-----------------------------------------<東>
雑賀荘 社家郷(宮郷)
南郷
雑賀五組が一枚岩かというと、そうではない。むしろ争っていた。
雑賀荘にあったのが雑賀鈴木氏。鈴木姓の発祥とされる藤白鈴木氏の支流で、
だとすれば熊野が本貫地であり、八咫烏の家紋・旗印を掲げたのも肯ける。
冊子のモデルコース順に追っかけようとしたが、なんかしっくりこないので
時系列に追っかけてみることにした。バックボーンには大坂石山合戦がある。
1577年、雑賀三組(社家郷、中郷、南郷)が信長に寝返る。
これにより信長軍が雑賀二組(雑賀荘、十ケ郷)を攻めた。
紀ノ川の北にある(当時の十ケ郷か)ショッピングセンターの裏駐車場。
目指すものは左フェンスの奥の方にあった。
中野城跡。塀の向こうは普通の民家のようだ。
説明書きには、当時の銃弾が出土している、とあった。
一方、風吹峠(かざふきとうげ)を進んだ軍は東側から雑賀城を攻めた。
前方の森が城跡。
麓にある城跡山公園から登った。
今は寺のお堂があるのみ。
麓一帯が城下町だったらしい。
鈴木孫一率いる鉄砲隊、弓隊に信長軍は損害を受けて一旦退去した。
が、結局一定の条件をのんで雑賀衆は降伏し、信長軍は兵を引いたらしい。
紀三井寺や海南方面が見える。
近くにある矢宮神社。神武東征でも登場した八咫烏を祀る神社。
信長軍を退散させたあと、孫一らはここで勝利の「雑賀踊り」を踊ったと伝わる。
左の石柱には「紀伊国雑賀庄総社」とある。
翌1578年、信長方についた雑賀三組を孫一は許す筈もなく
中郷、南郷を味方につけ、残る社家郷を攻めた。第一次太田城の戦と云われる。
この時の城主は社家郷の太田左近、紀氏の支流だろうか。
来迎寺。太田城本丸跡と伝わる。
この第一次の戦では、再度信長も動いて孫一を攻める。
が孫一も引かず膠着状態で結局和睦したらしい。
1580年、信長と大坂本願寺は和睦した。
境内に鷺森幼稚園がある。
ちょうど園児のお出迎えの時間帯で、境内は車だらけだった。
1582年5月、信長は三男の信孝に命じて鷺森を攻めさせたらしい。
顕如と孫一が必死に応戦しなんとか持ちこたえる。
1582年6月、信長は本能寺に消えた。
孫一は三度にわたって信長勢と戦い、負けはしなかった。
1584年、秀吉と家康の戦い(小牧・長久手)のとき
という事らしいが、定かでない部分もあるらしい。
1585年、秀吉は連合軍を攻めた。根来寺が焼かれたのがこの時。
孫一は秀吉側についている。秀吉側についたのは顕如のとりなしに
よるものらしい。
太田左近らはこのとき自刃した。
和歌山市平井というところにある蓮乗寺。平井は当時の十ケ郷で、孫一の本拠とされる。
雑賀孫市という名は、代々継承されたものらしい。
ここに記した孫市は、初代か二代目か?。お墓がこの寺にあるという。
入りづらくて、外から撮った。
雑賀は紀州惣国ともよばれ
つまりは自治的協同組織で、高い軍事力(特に鉄砲)を持った傭兵集団だった。
忠誠を誓う主君を持たず
信長から始まった天下統一への流れに乗る気分を持ち得なかったのだろう。
孫一の信心は一貫して浄土真宗にあった。
そのことを考えると孫一の行動がわかる様な気がする。
和歌山市駅近くの宇治交差点。
この交差点の一角に「雑賀鉢発祥の地」と題した案内板がある。
雑賀鉢とは、雑賀衆がかぶった兜のことらしい。