003有間皇子と藤白坂



わかやま歴史物語のストーリー003のテーマは

「悲劇の皇子 有間皇子と藤白坂」


海南市藤白にある白神社
境内の東側に駐車場があって、すぐ横の鳥居から入る。







熊野古道、藤白王子跡でもある。

建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇が催された藤白王子和歌会が有名で
その時の「熊野懐紙」御宸翰(ごしんかん)は国宝となっている・・・
というようなことが書かれている。


これがその書のようだが、まったく読めない。






神職鈴木氏の氏神ニギハヤヒを祀る。






鈴木氏は熊野から来た。






境内西側。ここから熊野古道に出る。





境内西の端にある有間皇子神社。


640年有間皇子誕生 。父は 軽皇子、母は阿倍氏の小足媛。

645年乙巳の変軽皇子が即位して孝徳天皇となる。
中大兄皇子が皇太子となりその妹、間人皇女が孝徳皇后となる。
有間皇子5歳。結果的に、人生が決まった瞬間だったのかもしれない。

652年いわゆる前期難波宮完成。
翌653年、中大兄皇子、間人皇女ら板蓋宮に戻る。
有間皇子は難波に居たのか、それとも?

654年孝徳天皇崩御。翌655年、斉明天皇(皇極重祚)即位。
孝徳天皇がひとり難波の地で死去した時、有間皇子は15歳。後ろ盾なし。
父の死後、心の病を癒すためと称し牟婁の湯(白浜)に赴いた・・・・・

658年謀反を疑われ有間皇子処刑。19歳。
罠に嵌ったのか、それとも本当に謀反を企てたのか?



処刑地とされる藤白坂。






斉明天皇から見れば、有間皇子は弟(孝徳)の子。
処刑に関して、斉明天皇がどういう姿勢だったのかは知らない。

蘇我赤兄有間皇子を調略した、ということになっている。 
単独説もあるが、中大兄皇子に命じられたという通説がもっともだと思う。





有間皇子が詠んだとされる有名な二首がある。


①磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

②家にあらば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る


処刑に先んじて磐代(いわしろ・みなべ町)の地で詠んだとされている。
が、後世の人物が詠んだという説もあれば
湯治に赴いた時のものだという説もある。




以前、御坊市にある岩内(いわうち)古墳を見に行った。





副葬品が、地方豪族ではあり得ない身分の高さを示していること。
そして、有間皇子の側近で皇子と共に処刑された塩屋連このしろ
が治めていた土地にあることが有間皇子伝承古墳とされる理由らしい。



斉明天皇や中大兄が亡くなってから、塩屋氏が自らの土地に
皇子にふさわしい古墳を造ったというのが故森浩一氏の見解らしい。