吉野ヶ里遺跡



 ・前期(BC5~BC2)
 ・中期(BC2~AD1)
 ・後期(AD1~AD3)
の約700年間で
吉野ヶ里ではこの全ての時期の遺構、遺物が発見されているという。


その吉野ヶ里遺跡のことは
テレビやネットなどで大体のイメージをつかんでいた・・・
つもりだったが、駐車場でこの景色を見た瞬間足が止まった。
え~?ほんとにここがあの吉野ヶ里遺跡?なのですか・・・







視線を左右に動かしながらエントランスに到着。
やっぱりちょっと違う、い~や全然違うイメージの吉野ヶ里







ゲートを過ぎると橋。うん?ちょっと雰囲気が変わった。







少し作った感はあるが、それなりの雰囲気。








逆茂木(さかもぎ)と呼ばれるバリケード。そして土塁に柵。







やっと見えた、これこれ。このイメージ。







南内郭といわれる辺り。櫓門に案内係がふたり立っていた。

係の人に聞くと
 ・物見櫓に登れば、ほぼ全容が見られます。
 ・あそこが王の住まいです。
 ・北墳丘墓は是非行ってください。本物です。
というような説明を受けた。




物見櫓に登った。







抱いていたイメージをはるかに超えるスケールと景観。







南内郭は
鉄製品が多く見つかっていることから支配者層の住居エリアとされる。







王の家。柵で囲まれている。







集会所。







北エリアに向かう。







北内郭。
まつりごとの場所とされ、祭殿や高床倉庫などがある。







係りの人が言っていた北墳丘墓ってこのことだろうか?

本物?かな。





いいえ、本物はちゃんと管理されていました。







歴代王の墓で、紀元前1世紀のものだそうです。



この展示館を出たところに係りの女性がいたので
気になっていたパンフレットのことを聞いてみた。
そのパンフレットには

よみがえる邪馬台国
邪馬台国って吉野ヶ里じゃなくて筑後にあったの?

と書いてあった。
これはどういう意味でしょうか、と漠然とした質問を投げた。

ええ、それはですね
ひょっとしたら筑後邪馬台国があったかもしれない・・・
毎年、吉野ヶ里の周辺地域と連携してこういう企画展をやっていて
まあ町おこし的な催しというか・・・今年は筑後地域、去年は・・・

熱心に答えて頂いた。

筑後っていうのは、久留米市とか大川市とかあの辺で・・・

このあと何回も大川市がでて来たので
ああ、あの大川栄策大川市ですか?と聞くと

そうそう、いやぁよくご存じで

よくわかりました、とお礼を言って別れた。





そのあと、マイクロバスに乗ってゲート方面に戻った。

乗る乗らないは自由だが、乗ってしまった。





ここは正式には「吉野ヶ里歴史公園」で
歩いて回ったコアーなエリアは国が管理し
その周りは佐賀県が管理しているらしい。

おそらくこの辺りは佐賀県管轄だろう。





バスを降りると
すぐそばに例の企画展をやっている展示館があったので入った。


入ってすぐ漢字ばっかりのパネルがあったので
これは何かと女性に聞いた。
学芸員を呼んできます、とのことで少し待った。

学芸員さんからは
これは〇〇先生が魏志倭人伝を抜粋したもので・・・
というような説明を受けた。(記憶が曖昧) 

その後、邪馬台国の話になって学芸員さんは
僕個人的には6:4で九州だと思っています。

私は、いや9:1で九州でしょう、と返した。

いえ、卑弥呼の金印とか難升米(なしめ)の銀印とか
そういう確実なものが出てこないと・・・

私が関西から来たと明かしていたのを気遣っていたのか
学芸員さんは別れ際
そうでしたか、九州論者でしたか。
感慨深そうに 言った。






この橋は「天の浮橋」と名付けられている。
吹き流しが誇らしげに見えた。 
行きとは全く異なり、帰りはこれぞ吉野ヶ里と感じる景色だった。



半分も見てはいない。
学芸員さんによると3年間で発掘したという。
田舎だからできたことです

弥生人もさることながら
これだけの復元整備を行った現在人の熱意にも感じ入った。