平原遺跡


九州に入ってから

 ・宮地獄神社( 〃 :神功皇后
 ・香椎宮  ( 〃 :仲哀天皇
 ・筥崎宮  ( 〃 :応神天皇

と、北の方から概ね南西方向へと順番に観た。 



その流れで平原(ひらばる)遺跡に行こうとしていた。
が、ナビについて行けず(曲がれと言われても、え?と思うことがある)
目的地のひとつだった伊都国歴史博物館に到着した。
順番が逆になっただけで、しかも近距離なので問題ない。


ここに来る途中、佐賀に入ってからだろうか
姿のいい山が右手に見えていた。地図で確認すると
可也山だという事が分かった。富士の形をしていた。
カヤ、ああ伽耶の山かと勝手に思った。





この写真の山は可也山ではなく、方角的にはおそらく高祖山だと思われる。

天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気
このクシフルタケという地名が残るあたりらしい。
その南には福岡と糸島をむすぶ日向(ひなた)峠が今もある。





博物館の裏駐車場に停めた様で、川沿いを歩いて表玄関に向かった。
堤防に何やら・・・魏志倭人伝のパネルだった。さすが伊都国。

博物館入口にあったでかい内行花文鏡がやはり印象的だった。
シンプルで気品がある、ように思える。






博物館を出て、やっぱり少し迷いながら到着。







一号墳。内行花文鏡(国宝)は、ここから出土した。

この銅鏡は、直径46.5センチの大型鏡。
その円周は、漢代の寸法でいうと「八咫」になるらしい。
そして「八葉」の文様も神宮ご神体の「八咫鏡」と同じと考えられる。





ここに埋葬された女性(埋蔵品からそういわれている)は
頭を西に、足は東の日向峠を向いていて、太陽との交合を
イメージしているとよく云われる。そうだろうか?








被葬者は、卑弥呼ともアマテラスともいわれる。

アマテラス鎮魂のためのコスモス園、と書かれていたと思う。






海側に向かって、なだらかに下っている。


「漢委奴国王」 の印を 後漢光武帝から授かったのは西暦57年。
奴国(ナコク)王なのか委奴国(イトコク)王なのか。

魏志倭人伝では、奴国王の存在は記されていないが
伊都国には代々王がいるとある。

金印の時代とは異なるとはいえ、伊都国には王がいたのだから
ここの被葬者は伊都国の女王かもしれない。

伊都国の女王、う~ん、卑弥呼ではないような気がする。