筥崎宮




筥崎宮の「筥」も箱の一種だが、特に円筒形のものをいうらしい。

神功皇后応神天皇を出産した際に、胞衣を筥に入れてこの地に
埋めたという言い伝えが筥崎(地名の箱崎)の由来だという。





筥崎八幡宮とも呼ばれ、応神天皇主祭神とする。








この辺り(九州)の神社、今までみてきた神社の雰囲気と何かが違う。








境内に入っても空がよく見える、その感じが今までとちがうのかなぁ。








この扁額を見上げた時、頭の中が消化不良になった。

どういう事なのか・・・? 説明書きを読んで落ち着いた。
「武力ではなく、徳の力をもって導き相手が自らなびき降伏する」
という意味だと書いてあった。そしてそれが
「王道である我が国のあり方」とも。





湧出石(わきでいし)。
「触れると運が湧き出でる」と書いてあったので触れた。
囲いから前のめりに落ちそうになりながら。小柄の人は難しい。

この石は「国に一大事があるとき、地上に姿を現す」とも書いてあった。
ずっと地上に出たままなのか・・・。







胞衣(えな)を入れた筥が埋められた場所の標しの松。

ソフトバンクが目立った。日本一になりました。







この神社の創健は、公式サイトで921年と記され割合新しい。








主祭神応神天皇八幡神と同一視される、のが通説。








それより、元々八幡(やはた)の神は秦氏の神、という説が魅力的だ。

「隋書」に「秦王国」という文言が出てくる。
宇佐神宮もある豊前あたりが有力地で、もちろん秦氏の国だろう。




隋書の記述が興味深い。
608年、裴世清が倭国を訪れ筑紫の東にある秦王国に至る。
そこの人々は、華夏(中国人)と同じようで、
なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。








応神天皇秦氏と同族、だったのだろうか。 








武内宿祢が生まれたばかりの応神天皇を抱く像や図をよく目にする。
あれは、父が子を抱いている風情には見えない。
(もちろん、応神は仲哀の子とされているのだが・・・)


紀氏の祖である武内宿祢は
気長足姫尊(神功皇后)を伴って秦王国にやって来た。
そこで姫は王国の誰かの子を身籠り
後の応神天皇を出産した。
そして紀氏と秦氏もつながった。

こういう妄想はあり?なし?