香椎宮



祭礼のとき天皇より勅使が遣わされる神社を勅祭社といい
伊勢の神宮は別格として、ほかに現在16神社あるらしい。

九州では、宇佐神宮香椎宮の2社があり、10年ごとに
勅使が遣わされる。



香椎宮(かしいぐう)。
公式ホームページによると主祭神仲哀天皇神功皇后








この地で没した仲哀天皇の霊を神功皇后が 祀ったのが起源らしい。







またこの地は
行宮(あんぐう)橿日宮(かしひのみや)があった場所とされている。








仲哀天皇熊襲との戦で戦死したのか、
はたまた神功皇后と武内宿祢に暗殺されたのか。

公式ホーページでは、仲哀天皇の死を200年頃と記してある。
だとするとそれは、倭国大乱が終わった卑弥呼の時代と思われる。





朝鮮の歴史書三国史記」に「208年、倭軍が新羅を攻める」
という記述があるらしく、神功皇后のことかと思わなくもない。

けれど現在の通説は、好太王碑にある「倭が新羅を破り・・・」
という記述を神功皇后三韓征伐とイメージしていて、それは
391年のことで、200年とは随分開きがある。





マイ古代史では、208年の新羅攻めも391年の半島攻めも、
その主体は当然、倭(九州王朝)ということになる。

が、ここで悩ましいことがある。
391年の半島攻めの時期と、宗像沖ノ島の祭祀開始時期が一致するという。
沖ノ島ヤマト王権支配下、というが、ほんとうにこの頃からヤマト王権
の息がかかっていたのだろうか。





仲哀天皇は、あのヤマトタケルの子。

祖父は景行天皇ということになる。
日本書紀には、この景行天皇による熊襲征伐の話がある。





けれどこの話は、
九州北部王朝の王による九州統一の話だ、という趣旨の説を読んだ記憶がある。

景行天皇ヤマトタケル仲哀天皇は、その実在性が疑われている。
それは、九州王朝の出来事を記紀が取り込んだためかなと思わなく
もない。

けれど仲哀天皇の子、応神天皇の実在は確実とされているところが
おもしろい。応神天皇は一体どこからきたのか。




この人の謎ぶりも半端ではない。



成務天皇景行天皇第四皇子)と同じ日に紀伊国で生まれ
第12代景行から第16代仁徳の各天皇に仕え
360歳で死去した、ということになっている。

神功皇后を介して結び付けたキーマン
として実在、いや必要だったのだろうか。