下関まで



2018年の秋旅は、北部九州を回ることにした。
和歌山からは遠い。初日は山陽道をただただ走るのみ。
一挙に九州までとも考えたが、その一歩手前の下関で一泊とした。




吉備SA。








らしからぬ光景が広がる宮島SA。








無料の双眼鏡が2台。片方はダメでもう片方で宮島が見えた。








美東(みとう)SA。山口市のやや北西。









3か所のSA休憩の後、下関に到着。








下関は、ただ宿泊のみと考えていたので下調べなし。 
巌流島か。そういうところなのか。








日暮れまでの一時間弱の散歩。

関門海峡はほんとに狭い。






亀山八幡宮に遭遇。

鳥居左手に亀山八幡宮の石碑。
その左手に山陽道の石碑。ここが起点らしい。




そして、これも後で知った事だけれど
この「亀山宮」の扁額に野球少年が投げたボールが
50年以上も挟まったままになっているという。

亀山宮の「山」の字の左下にボールらしきものがある。
野球の必勝祈願に訪れる人がいるという。






拝殿。








亀山砲台跡。

文久3年(1863年)5月11日午前2時
久坂玄瑞の指揮により
アメリカ商船攻撃合図の砲弾が
亀山砲台から発射され・・・

と説明書きにあった。
商船を攻撃したのか・・・





あてもなく、わからぬまま歩く。








お寺があった。








これを読んでもピンとこなかった。

日清戦争を習った当時は「へぇ、日本が勝ったのか」という程の認識。
で、調べてみて少しわかった。

ここがいわゆる「下関条約」の舞台だった。
清国の全権大使が李鴻章で、この寺を宿舎にした。
ちなみに、日本側は伊藤博文陸奥宗光
(あれ、長州藩士と紀州藩士、これも何かの因縁か)

清国が払った賠償金は、日本の国家予算の4倍強という
とてつもない金額だったらしい。





お寺から少しぶらぶら歩くとこんな所があった。

伊藤家の当主は、龍馬を物心両面から支えたと書いてある。
そして、龍馬とお龍がここで暮らした時期があったらしい。
お龍が龍馬の死を知ったのもここだったらしい。


この伊藤邸に隣接して、ふぐ料理店春帆楼(しゅんぱんろう)
というのがあって、その2階大広間が講和会議場だったらしい。

先ほどの引接寺(いんじょうじ)とここを結ぶ道が李鴻章道。
はからずもその道を歩いたことになる。



近くには壇ノ浦もあった。
下関の散策時間をとっておけばよかったと少し後悔した。