牧野(ばくや)古墳





ここに来るのは3回目ぐらいだろうか。広陵町にある竹取公園。


舒明天皇陵に行って以来、この天皇の前後左右を色々調べている。
推古天皇聖徳太子蘇我馬子、天智、天武天皇・・・・・
中でも一番気になるのが、舒明天皇の父、押坂彦人大兄皇子



その彦人大兄の陵がこの竹取公園の近くにあることが分かった。

ここに車を停めて歩こうと思っていたが、暑さに勝てなかった。





車ではあっという間に着いた。周りは広い住宅街。
牧野と書いて「ばくや」と読むらしい。何で?







史跡公園の入口。

彦人大兄は敏達天皇と息長氏の娘(広姫)との間に生まれた子。 
この時代には珍しく蘇我氏の血が流れていない王族だった。
推古天皇の時代に、馬子や聖徳太子と共に?活躍?したのだろうか。 



とりあえず入口から上る。

前から、この時代のことで気になっていることがある。
隋書に出てくる俀(タイ)国とはどこなのか? 
そして俀国王 「阿毎多利思北孤」とは誰なのか?


推古朝の時代だから王といえば推古、いいや残念。推古は女性。
多利思北孤(タリシホコ)は妻を持ち、後宮に数百人を侍らす男性。 
とすれば、聖徳太子もしくは馬子だろう、というのが定説。
聖徳太子後宮の組み合わせはイメージしづらい。やっぱり馬子か。

そもそも隋書にある「俀国」は近畿ではなく九州  にあった国で  
多利思北孤は、馬子でも聖徳太子でもない、 と思う。  
誰か?  押坂彦人大兄皇子...あり得る。 





見晴らしのいいところまで来たが、石室が見つからない。

ネットに「彦人大兄=馬子」説があった。
蘇我一強時代に、蘇我の血を持たないとされる舒明が即位できたのは
父が馬子だったから...か?





この古墳は直径約50mの三段円墳らしい。段らしきものが分かる。

彦人大兄には「皇祖大兄」という呼び名もある。
=馬子説では、説明がつく。





やっと石室入口を見つけた。







飛鳥の石舞台と同じようなつくりで、それよりは若干小さいらしい。

なぜこの古墳が彦人大兄だと比定されたのか、いまいち分からない。
=馬子説では、ここが馬子の墓ということになる。


この古墳、墳丘の規模は約50mだが、延喜式によると
陵域は東西15町(1.6キロ)、南北20町(2.2キロ)
で日本最大だという。ちなみに伝仁徳陵は8町×8町らしい。


日本一大きい陵域に眠る押坂彦人大兄皇子


その子、舒明天皇は和風諡号に「息長」をもつ。
その子、天智天皇が近江で即位したのは息長と無縁ではないと思える。
そしてもう一人、天武天皇には蘇我の血が流れていたと思える。
つまり異父兄弟。

押坂彦人大兄皇子の生没年は不明。
けれど、644年没という情報をどこかで見た。
乙巳の変の前年。そうかもしれないなと思った。