段ノ塚古墳



桜井市にある段ノ塚古墳。舒明天皇陵とされている。

舒明(じょめい)天皇にはさして興味はなかったが
ここの地名「忍阪」に惹かれてやってきた。


舒明天皇と読める石柱があった。







坂道を登り始めて間もなく、何やら説明書きが。







通称「ちご石」とよばれる神籠石(じんごいし)らしい。
神武がこの地(押坂)で八十健(やそたける)と戦ったとき
楯にした巨石だという伝説だが、どうも古墳の石材らしい。






この地は今の表記で忍阪、「おっさか」と呼ぶらしい。








趣のあるエントランス。







押坂内陵、そして糠手姫皇女押坂墓と書かれている。
糠手姫(ぬかでひめ)は舒明天皇の母。 
よおく見ると糠手姫は「敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子妃」と書かれている。
つまり舒明天皇の父は押坂彦人大兄ということになる。






ここに来てからずうっと舒明天皇を調べていた。
なぜか「前後左右」という言葉が浮かんだ。
舒明天皇の前後左右、つまりその周りの人物達が半端ないのだ。 








父の押坂彦人大兄皇子は第30代敏達天皇の第一皇子で母は広姫(息長氏)。
敏達天皇の次は異母弟の用明天皇が即位した。
用明の次に彦人大兄皇子が天皇についてもおかしくはなかった。
蘇我氏に阻まれて32代崇峻天皇が即位した、らしい。
崇峻天皇の兄弟には厩戸皇子がいる。







彦人大兄皇子には「皇祖大兄」という気になる名がある。
どういう意味の「皇祖」なのか?








エントランスの脇にあった案内図。
大伴皇女(おおともひめみこ)は欽明天皇の皇女で
同母(堅塩媛) 兄弟に用明天皇推古天皇がいる。

なぜこんなところに? 





案内図に沿って歩いた。

敏達天皇は非蘇我氏。つまり蘇我の血が流れていない。
 
次の31代用明、32代崇峻、33代推古は蘇我系。
で次の34代は、蘇我系の山背大兄と非蘇我系の田村皇子(舒明)が
争って、何故か舒明が即位した。
その時、父の彦人大兄は存命だったのかどうか、分からない。






のどかで散歩にはいい。
34代舒明天皇は宝王女(たからのひめみこ)を娶る。
そして中大兄皇子大海人皇子が生まれる、ことになっている。








真ん中のこんもりした所が大伴皇女墓のようだ。
暑かったので引き返した。

宝王女(35代皇極、37代斉明)は
 
舒明に嫁ぐ前に高向王(用明の孫とされる)と結婚して
 
漢皇子(あやのみこ)を生む。
 
この皇子が大海人つまり天武天皇だという説は知っていた。
 
が今回、「いや漢皇子は天智天皇だ」という説に出会った。





はてさて、駐車場に戻ってきた。




オシサカといえば「意柴沙加宮(おしさかのみや)」。 
和歌山県橋本市の隅田八幡宮の画像鏡に印刻されたあの文言。 



駐車場近くにあった神社に寄ってみた。式内社のようだ。
書いてあった。画像鏡にある意柴沙加宮とはここだと。 
この説明書きは興味深い。






どういうわけか、画像鏡にある「日十大王」とは
押坂彦人大兄皇子のことだという説にも出くわした。



大雑把にいうと
33代推古天皇から34代舒明天皇への代替わりは
なにか大きな動きがあったのだろうと思われる。
その中心にいたのは押坂彦人大兄皇子ではないか。
そんな気がする。

そして舒明天皇崩御して間もなく
乙巳の変が起こりまたもや時代が大きく動き出した。



意柴沙加宮はここにあったのだろうか。 




後日、押坂彦人大兄皇子の墓とされる牧野(ばくや)古墳へ行った。
その陵域は伝仁徳陵をはるかに超える日本最大らしい。