大山祇神社と村上海賊



通称「しまなみ海道」を通って次の目的地へ。
途中、瀬戸田パーキングで休憩。






ここは尾道市生口島(いくちじま)という島の南端。
生口島という名は、邪馬台国が魏に献じた生口(せいこう=奴隷?)を
この地に留めたから、という由来など諸説あるらしい。







生口島から多々羅大橋を渡ると大三島に入る。
橋が県境だったのか、ここの住所は愛媛県今治市







道の駅から少し歩くと目的のそれらしき建物。
この景色からすると、まあ普通の神社だろうか。

うしろに見えるとんがった山が
神体山の鷲ヶ頭山(わしがとうざん)だと後でわかった。








鳥居にまわってみて
ここは普通じゃないと気付いた。伊予国一宮、大山祇(おおやまづみ)神社。







総門は新しい。
が、軽い感じはなくすでに重厚感がある。







総門の手前にある斎田。旧暦9月9日に抜穂祭があるらしい。







総門の扁額。
大山積大明神はイザナギイザナミの子、オオヤマツミのこと。
アマテラスの兄で、コノハナサクヤヒメの父ということになっている。

ニニギがコノハナサクヤヒメだけ娶り、姉のイワナガヒメ
送り返したとき「天孫の寿命は短くなる」と脅したあの父だ。






総門をくぐる。境内が広い。
そして、広いだけではない何かを感じる。







能因法師 雨乞の楠」と説明書きにあった。樹齢3000年。







十七神社。 
大山祇命を守る十六柱の神を祀っているそうな。
とするともう一柱は?・・・わからない。







ご神木「乎知命(おちのみこと)御手植の楠」。
知命とは大山祇の子孫で、伊予の豪族越智氏の祖とされる。
どうも物部系のようだ。

この外国人女性は、囲いに寄り掛かって長い間見つめていた。
何を想っているのか、少々不思議だった。




拝殿。

大山祇は山の神だと思っていた。
が、別名の和多志大神の「ワタ」は海のことで海神の性格もあるという。




ここに宝物館展示物の一部が記載されている。
斉明天皇の鏡?護良親王の太刀?・・・もちろん入った。

斉明天皇が筑紫の朝倉宮に遷幸した際に奉納された鏡、これは異例。
異例というのは展示物の殆どが刀、鎧兜、弓などの武器武具だから。
義経の「八艘飛びの鎧」、弁慶の薙刀などなど・・・圧倒的だった。




宝物館を出て、武器庫と言われている奈良の石上神宮を連想した。
この神社は武器庫ではないにしろ、戦と深く関わってきたのはわかる。

このあたりを地図で確認すると
芸予諸島と呼ばれる島々で海が複雑に閉鎖されているように見える。
そして
もし本当に、斉明天皇が瀬戸内海を通って筑紫に行ったとしたら
ここに立ち寄ることは至極当然のように思える。





予定にはなかったが、伯方島を通り大島へ入り村上水軍博物館に立ち寄った。

村上水軍」という言い方で記憶していたが
この幟にもあるように「村上海賊」と表記している所が多くて不思議だった。
がどうも、水軍という表現は正確ではなく、清濁併せ持った「海賊」という
言い方が最近の主流らしい。





村上景親(むらかみ かげちか)という人は戦国から江戸初期の人。

村上海賊は14世紀中頃から活躍したらしく芸予諸島が庭だったのだ。
この景親の頃が全盛で、西は北部九州、東は塩飽諸島(瀬戸大橋の辺り)
の域で海上交通を掌握したらしい。



真ん中の島が能島(のしま)城址。島全体が城のようだ。







雨模様の平日だったが、そこそこ来場者があった。
私は読んだことがないが本屋大賞をとった「村上海賊の娘」の影響かも。

この船にある「武吉」というのは、「たけよし」という人名で
村上海賊の娘の主人公 景(きょう)の父らしい。そして景親の父でもある。



村上武吉を調べてみると、ウィキペディア
大山祗神社にて一族の結束を固める為に連歌会を多く催し
武吉個人も非常に多くの連歌を残し
教養にも秀でていた事が垣間見られる
とあった。

大山祇神社も戦一色ではなかったようだ。