長野旅(7)上田城


善光寺戸隠神社を見た。次は最終目的地の諏訪に向かう。
途中、おそらくは来年注目されるであろう上田城に寄った。
いくら視聴率が低くても、大河は欠かさず見ている人間だ。





真田昌幸天正11年(1583年)、築城に着手したとある。








真田が仕えていた武田は、
天正10年(1582年)3月、信長によって滅ぼされる。
真田も織田に臣従した。








その3か月後、本能寺の変
旧武田領地をめぐって、天正壬午の乱が起こる。


天正壬午(じんご)の乱とは、
徳川家康上杉景勝北条氏直が領地争いした事件で
結果的にこの時、家康は甲斐と信濃(上杉、真田領を除く)
を手に入れて大大名になる。

この、「真田領を除く」というところが面白い。
どうも、紆余曲折の末、最終的に真田は徳川に逆らっている。

これらは天正10年のことで、
その翌年天正11年に上田城の築城を始めたことになる。






天正13年(1585年)に第一次上田合戦が起こる。


簡単に言えば、家康が真田を攻めたが失敗。
この時から家康は、真田を評価するようになったという。

ともあれこの時、徳川も真田も豊臣の家臣という立場で
どうやらいったん和解しているらしい。




慶長5年(1600年)第二次上田合戦が起こる。


1600年といえば関ケ原
当初、真田は東軍についていたが
昌幸と次男の幸村は西軍についた。
長男の信幸は東軍のまま。

第二次上田合戦とは、昌幸、幸村と秀忠の戦いのこと。
この戦で秀忠は、信幸の軍勢を差し向けている。
それを知った幸村は、兄信幸に支城を明け渡したという。

結果は秀忠軍の敗北。
秀忠が関ケ原に遅れた原因と言われているが
そうでもないらしい。






関ケ原は東軍の勝利で、昌幸、幸村親子は、紀州九度山流罪









その後のことは、来年の大河が教えてくれる。



ここに来る道すがら、やけに六文銭が目についた。 




平成27年10月