飛鳥周辺

五条市から高取町へ抜ける県道120号線。
ほぼJR和歌山線と並行するように走る。
吉野口あたりでは近鉄吉野線も並行する。



こういう広い区間もあるが、対向不能な箇所もいくつかある。









そういう道だったのか。








市尾墓山(いちおはかやま)古墳というのがあった。
もう高取町に入っていた。

6世紀初め頃の前方後円墳で100メートル級。
継体天皇に仕えた(支えた?)巨勢氏。
被葬者の第一候補は巨勢男人のようである。






市尾からやや北東に行くと、岡宮天皇陵がある。
岡宮天皇とは、草壁皇子のことである。









陵からの眺め。わかりづらいが、道をひとりの学生が歩いている。
ずっと手前で追い越したのだが、ひたすら歩き続けていた。

草壁皇子は28歳で逝去した。
ひたむきな人だったのだろう、と思う。







明日香村に入った。岩屋山古墳。
近鉄飛鳥駅のすぐ北西にある。









中を覗いた。精緻な造りである。
八角墳で、斉明天皇陵だという説もある。









岩屋山古墳から西へ、牽牛子塚古墳。発掘調査中だろうか。
「牽牛子」とは、アサガオのことらしい。
そして、此処こそが斉明天皇陵だといわれている。










牽牛子塚から東へ、文武天皇陵。
高松塚古墳のすぐ南にある。









文武天皇の父は草壁皇子、天武系。
母は後の元明天皇、天智系。
持統天皇のあと15歳で即位したらしい。
もちろん実権は持統上皇にあっただろう。










文武天皇稜から少し西に檜隈寺跡がある。
東漢(やまとのあや)氏の氏寺で7世紀後半に建立されたらしい。
ピンぼけで読みづらいが、今は於美阿志(おみあし)神社である。

この明日香の檜隈は、
元々は紀の国の日前(ひのくま)が起こりで、
つまり、紀氏があの紀路を通ってこの地にやってきて
日前の神を祀ったのがはじまりという説もある。




今は十一しかない十三重石塔婆。


境内に、
宣化天皇檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)跡
の碑があった。
宣化天皇継体天皇の第二子。
何故この地に皇居を造ったのだろう。






次は、欽明天皇陵に向かった。
欽明天皇継体天皇の嫡子で、宣化天皇の次に即位した。

写真左の方から、天武持統天皇陵の裏手を見ながら歩いた。









途中、鬼の俎(まないた)と雪隠(せっちん)があった。








鬼の俎。古墳石室の底石らしい。









鬼の雪隠。古墳石室の蓋石らしい。随分大きなトイレだ。









やっと辿り着く。炎天下で草刈り。
宮内庁管轄の陵墓は、どこも手入れが行き届いている。
おじさんも大変そうだったが、
この頃になると私もバテバテだった。








欽明天皇陵の遥拝所の前には、上って下る道がある。
見下ろす感じの道があるのは珍しいと思った。


天武持統天皇陵の真西にある。
明日香村では唯一の前方後円墳だったと記憶している。






天皇陵の前に、吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)がある。
檜隈墓というらしい。ここは檜隈という地名ではない筈だが。
吉備姫王は斉明天皇のお母さんである。









このお墓は、
江戸時代に近くの田圃から見つかった
猿石があることで有名らしい。









もう帰らねば。熱中症にならないうちに。



欽明天皇陵も、檜隈阪合陵(あいのみささぎ)というらしい。
檜隈という名称が何か気になる。


飛鳥はやっぱり、古代が凝縮されている。



平成27年7月