斉明天皇陵


御所市だと思っていたら、高取町だった。
御所から東へ曽我川を渡ると高取になる。











標識が指す方向を向く。突き当りが目的地のようだ。










宮内庁の立て札があった。
足元が滑りやすいとの注意書きだった。









この時、雨は降っていなかったが下は濡れていた。
確かに気をつけねば滑る。相当登る。









まだ途中だと思われる処に
天武天皇妃大田皇女 越智岡上墓」
と説明のある墓がある。


大田皇女は天智天皇の子で、讃良皇女の姉。
ふたりの皇女はともに天武天皇の妃となるが、
大田皇女は天武即位前に亡くなった。

讃良皇女はのち持統天皇となり、
大田皇女の子、大津皇子は24歳で自害に追い込まれる。

日本書紀に、大田皇女の死亡記事はないらしい。
時も、場所も、死因も書けなかったのだろうか。






やっと斉明天皇陵に着きそうだ。










乙巳の変の時は皇極天皇
そして斉明天皇時代は百済への援軍派遣など。








なんとも悩ましいことを書いてある。
斉明天皇
孝徳天皇皇后間人皇女越智岡上墓」
天智天皇皇子建王墓」



孝徳天皇は斉明の弟で、その皇后の間人皇女は斉明の子。
建(たける)王は天智天皇の皇子であるから斉明の孫で、
先ほどの大田皇女の弟になるのだろう。

整理すると、
ここには斉明天皇、子の間人皇女、孫の建皇子が埋葬され、
やや下ったところに孫の大田皇女が埋葬されている、
ということになるのだろうか。






ぐるり一周する。



日本書紀によれば667年、天智天皇
母や妹や子を合わせ葬ったということになる。


話はそれるが

天智天皇は、舒明天皇と斉明の子。

天武天皇は、高向王と斉明の子である
漢(あや)皇子だろうと思っている。

斉明、天武の後ろには吉備がいる。反百済、親新羅だったろう。
斉明は、ほんとは百済に援軍など出したくはなかった。







そんなことを考えていると、ますます
讃良皇女(持統天皇)の立ち位置がややこしいなぁ
と思ってしまう。



斉明天皇陵は、
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)である
というのが最近の定説のようです。


とすれば、ここに眠っているのは誰?なんだろう。


平成27年7月