今城塚古墳と太田神社

何かを調べていて「呉の勝」(クレノスグリ)に出くわした。
呉の勝は韓国から来て、始めは紀伊の名草郡太田村に着いて、
その後、分かれて摂津国三島賀美郡に来てそこの地名も太田
としたらしい。そこにあるのが太田神社で式内社である。

太田は「おおだ」と濁り読みし、和歌山市太田は馴染み深い。
そことゆかりのある土地に興味が湧いて、大阪の茨木市太田
に行ったのである。地図を見ると太田神社は太田茶臼山古墳
に隣接している。そのちょっと北東に今城塚古墳と歴史館が
あり、車を停めるのはそこがよろしいかと目的地に設定した。

やはり、人生何が起こるかわからない。ちょっと大袈裟な
言い方だけれど、結局この日は今城塚古墳がメインで太田
神社は付録みたいなものになってしまった。

今城塚古墳にある古代歴史館に車を停めまずトイレに入った。
せっかくなので、また無料なので館内を見学することにした。
展示室の入口前におじさんがいて、説明をしてくれるという
が遠慮して中に入った。展示物を眺めていると、突然さき程
のおじさんが後ろにいて、話をし始めた。

ほぼすべての展示物について説明を受けた。これがよかった。
何も聞かずに見ただけとは大違いだったと思う。

この円筒埴輪はもちろんレプリカだが
本物は6000本見つかったらしい。
たまげる数である。






宮内庁は、太田茶臼山古墳継体天皇陵としている。
が、今城塚古墳が継体天皇稜であるというのが学会
の定説のようだ。








「いましろ大王」と大きく書いてはいるが、写真右上にある雲に
乗ったおじさんは「継体大王さまの家来のケッタイです」と書い
てある。あの歴史館のおじさんは、ケッタイさんだったのだ。








ケッタイさんは、「ないものは造らない」と仰った。
つまり、この時代(6世紀初頭)には千木や鰹木と
いう様式がすでにあったということ。








いわゆる魏志倭人伝には、倭に馬はないと書かれている。
どうも4、5世紀頃に伝来したらしい。









これらの埴輪は、祭祀場に飾られています。和みますねぇ。


ケッタイさんにいろんな事を教えて頂きました。

石棺に使われていた阿蘇のピンク石を、実際に人力で運んだとか
なぜ継体天皇がこの地に葬られたのかとか、宮内庁の管轄でない
ことがすごくラッキーであるとか、とても書ききれません。







今城塚で想定外の時間を食ってしまった。
遅い昼食を喰ってから太田神社に行った。


由緒書きがない。
下調べではスサノオだったと思う。
が後で調べてみると実にややこしい。
アメノコヤネ(中臣太田連)やオオタタネコ
などの名前もでてくる。
とにかく呉の勝との関係が分からない。





神社の右奥に太田茶臼山古墳がある。




今城塚古墳と太田茶臼山古墳の距離は1キロ半くらい。
前者は高槻市で、後者は茨木市

今日は、ケッタイさんのおかげで勉強になりました。



平成27年4月