海南市へ

 
 
気になる場所やモノなどを書き留めているB6版ノートを
ぺらぺらめくった結果、海南市にやって来ました。
 
 
 
 
伊勢部柿本神社

おそらく「伊勢部」という文字に反応して書き留めたのだと思います。
JR紀勢本線の高架と隣接して鳥居がありました。
 
そういえば最近、海南駅付近が高架になりました。
ちょっと気になって調べてみると平成10年10月10日という
狙ったような日に竣工したようです。
私にとって平成の出来事は最近の出来事です。
 
 
 
 
 
拝殿

やはり、元伊勢のひとつのようです。
マリーナシティ近くにある濱宮のあと、
トヨスキイリ姫はこの地に遷ったらしい。
 
 
 
 
 
「伊勢部」は納得できましたが、なぜ「柿本」なのかは今もわかりません。

 
 
 
 
 
 
 
このあともう一つの目的地へ向かう途中、少し異様な光景に出会いました。
 
 
 
 
 
 
少し進むと、永正寺というお寺だとわかりました。

1577年、それまで雑賀衆と仲良くやっていたこの地の豪族
大野十番頭の一部が信長側についたということで雑賀孫市が怒って攻めた。
「井松原の戦い」というらしい。
この永正寺にはその時戦死した約200人の過去帳が残っているらしい。
 
 
大野十番頭とは、もともと聖武天皇の命によって
奈良から春日大明神を勧請してきた神官団であったらしい。
そういえば海南駅ちかくに春日神社がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
メモっていた次の目的地に向かいます。

 
 
 
 
 
 
 
 
途中、中言神社と書かれた大きな標識があったので寄ってみました。
ここはメモにはなかったのですが記憶にはありました。
 
この路地の奥にありました。

 
 
 
 
 
 
 
ここに柿本人麻呂の句碑がありました。

 
古(いにしえ)に妹(いも)と我が見し ぬばたまの
黒牛潟を 見ればさぶしも
 
持統天皇文武天皇の白浜行幸に人麻呂もお伴した。
 
かつては愛する人と一緒に眺めたこの黒牛潟を、
今は一人で眺めているのがとても寂しい事だ。
 
という大意らしいが、
行幸のお伴というより、すごく個人的な感じである。
 
 
 
 
黒牛が鎮座しています。

 
 
 
 
 
 
 
このあと、やっと今日2つ目の目的地に到着しました。
細い石段を登り切って、まず目にしたのがこの風景。
しばらく眺めながら、
私は、なにゆえここをメモっていたのか・・・思い出せない。

 
 
 
 
 
 
 
浄国寺

私は、どうやら裏から入ったらしい。
ここまで来て、なにゆえメモっていたか思い出したのです。
 
 
 
 
 
 
 
この石垣を見たかったのです。

樹齢600年の楠。
木が先か、石垣が先か、木でしょうね。
 
 
 
 
 
 
ぽつんと達磨さま。

全身が焼けるさまを「火だるま」という。
昭和20年7月9日和歌山大空襲。
和歌山市内でまさに火だるまになった達磨さんをここに移したらしい。

 
 
 
 
 
 
 
今日歩いたのは、海南市の黒江や日方というところです。

 
 
 
柿本人麻呂が気になってきた。
歌聖とよばれながら、出自がわからないし、
いつどこでなにゆえ亡くなったのかも
定かではないらしい。
持統天皇と歩調を合わせるように活躍したことは確かなようです。
 
平成26年9月