道成寺

2013.2.3道成寺へ行った。文武天皇勅願所とは知らなかった。
 「かみなが姫物語」という藤原宮子の伝説があるらしい。
日本風景街道 熊野 ホームページより
日高の村長に生まれた女が、母親の深い祈りと犠牲によって、丈なす美しい黒髪に恵まれます。やがて、藤原不比等の養女になって入内し、文武天皇の妃となり聖武を出産した。

 
 
 
 
 
 
 
 
仁王門をくぐってすぐ右手にある「二代目鐘楼跡」
初代はもちろん安珍清姫事件で焼失。それから400年後に二代目が作られたが
その釣鐘は曰く因縁あって、今は京都の妙満寺というお寺にあるらしい。
だから、道成寺に釣鐘はない。釣鐘饅頭は今もある。

 
 
 
 
 
 
 
安珍は現在の福島県白河市の人らしい。 
白河市ホームページより
安珍像は昭和60年、その舞台ともなった和歌山県道成寺から遷座されました。お堂の近くには「安珍の墓」や「安珍堂の桜」もあります。 毎年安珍の命日である3月27日の「安珍忌」には、安珍堂前で県指定重要無形民俗文化財安珍念仏踊」が奉納されています。

 
 
 
 
 
 
三重塔

 
 
 
 
 
 
本堂

和歌山(紀州)と福島(会津)の縁を思って調べた。
 
文仁親王妃紀子(きこ)さまは、紀州会津の流れを汲む。
父方の川嶋家は江戸時代から続いた紀州の庄屋で、紀子さまの本籍地も和歌山市であった。
紀子さまの祖母に紀子(いとこ)さんという方がおられ、この紀子(いとこ)さんの父が大正のはじめ
大阪市長を務めた池上四郎。この池上四郎という人は会津の生まれで、戊辰戦争では白虎隊
少年隊員として会津若松城に籠城したらしい。
 
戊辰戦争といえば、
その緒戦となった鳥羽伏見の戦で敗走した多くの会津藩士が紀州に逃れてきた。
由良町の念興寺というお寺には、元公儀見廻組で龍馬暗殺に加わったとされる土肥仲蔵らの墓碑が
ある。その頃、紀州徳川御三家でありながら朝廷側についていた。
それでも、というか、だからというか会津藩士を手厚く遇したため朝廷側の逆鱗に触れ窮地に立った。
これを救ったのが、かつて紀州を追われた陸奥宗光だったという。
 
 
 
 
 
 
道成寺七不思議というのがある。そのうちのひとつ。

 
 
 
 
 
 
確かに、参道から本堂の中が見える。

けれど、これが「不思議」といえるのかどうか。