最上廃寺跡

桃山町に美福門院のお墓と伝わる場所があります。
この大きなクスノキの一帯で、最上廃寺跡とも尼岡御所跡とも言われています。
 
写真右手の方(南)は小高い丘陵地帯で(今は工業団地)
尼岡と呼ばれているそうで、尼寺があったと伝えられています。

 
 
 
 
クスノキの下にある狭い、四角い敷地の南西に
「美福門院御墓」と書かれた石碑がありました。
 
「門院は鳥羽天皇の后 近衛天皇の御生母にして 両帝崩御の後
 御持領の荒川荘(安楽川)の尼ヶ岡(小林)に御来住・・・」と始まります。

 
 
 
 
美福門院(藤原得子)は1160年
白河押小路殿(洛外の白河に造営された女院御所)で44歳の生涯を閉じたと伝わります。
この傾いた石塔の下に遺骨が納められているといいます。

 
 
 
 
 
鳥羽院は伏見の安楽寿院というところに二基の塔を立て、自分と得子を祀れと言い残します。
得子は、その言葉に反して自分の遺骨は高野山へ、と言い残します。
ここ荒川荘は、得子が生前、高野山に寄進した土地であり、
ここにお墓があることは何ら不思議はないと思われます。

 
安楽寿院の二基の塔には、鳥羽院近衛天皇が祀られているそうです。
鳥羽院の寵愛を受け続けた美福門院、どういう心境だったのでしょうか。
 
 
撮影日:平成24年6月17日