真土(まつち)と軽(かる)


和歌山県橋本市の真土。奈良県との県境にある。


こんな駐車場がある。
が、訪れる人は多くはないと思われる。








駐車場から、国道24号線を横切り「飛び越え石」を目指す。
奈良方面を向いている。やや大きな建物の向こうに落合川
流れている。その川が県境のようだ。









取り立てて何もないが、万葉人にとっては
特別な場所だったようだ。
ここを進むと落合川に降りられる。








小さな川だ。もう少しで紀ノ川に流れ込む。








飛び越え石。難なく渡れる。









大和側にあった碑。「神代」には少し違和感がある。
平城京時代より真土越えの要路であった」と書いてある。









この石碑が気になった。「笠朝臣金村作歌」とある。
笠金村という人は吉備氏の一族で、万葉集に45首
を残しているらしい。そして、天武天皇時代を神代
と記しているという。上の碑の「神代」はそこから
きているのかな。

大君の 行幸のまにま もののふの 八十伴の男と    
出で行きし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の路より・・・


聖武天皇紀伊行幸に従った時の歌という。
歌の深い意味は分からないが、気になったのは
軽の路より」の箇所。軽の路とはどこだろう?






少し前、この道を走った。
紀路(高野街道)と書いてある。巨勢路ともいうらしい。


紀伊から大和を結ぶ路は五条あたりで
西側の葛城古道(葛上斜向道路)と
東側の巨勢路に分かれる。その二つ
が大和で交わるのが「軽」と呼ばれる処。
今の橿原市の丈六交差点あたりらしい。





葛城古道は随分と起伏が激しい。
巨勢路はそうでもない。写真は「重坂」踏切だと思われる。
巨勢路でここが一番高いところらしいが、峠という雰囲気は
ほとんど感じられない。


葛城古道は葛城氏と共に衰退したらしい。







軽は古代、「軽の巷」と呼ばれ広場の役目もあったらしい。
そのすぐ北に神武天皇陵がある。



この軽の地に居たのが軽皇子
乙巳の変のあと即位した孝徳天皇で、
有間皇子の父親。




有間皇子も巨勢路を通って紀伊に来たのだろうか。
そして、この真土峠を越えたのだろうか。



孝徳天皇の在位は10年程で波乱の時代だったろう。
挙句ひとり難波宮に残されてその後、子供を殺害され
つくづく悲運だと思う。

平成27年8月