大石神社と赤穂城跡



はっきり言って、いわゆる忠臣蔵は好きだ。
で、赤穂にやって来た。



昼食をとった店のまわりをウロウロ。このバス停をみて
「えっ、くらのすけとちゃうやん!なんでやねん」とつぶやいた。

標識をみると前方は、西浜工業団地、赤穂磯産業団地と書いてあった。
目的地も同じ方向。






大石神社に到着。








四十七士が出迎えてくれる。この左側の列は裏門隊の二十四士。

一瞬、兵馬俑かと思った。で、ようく見ると
兵馬俑工芸技術伝承者作製」と書いてある。












大人っぽい主税。

奉納、大石道子とある。






内蔵助の奉納は「十一代目後裔大石浩史」とある。

内蔵助の三男、大三郎という人の系統でつながっているらしい。






左が浅野家、右が大石家の家紋。








御利益は大願成就、願望成就。これは納得するしかない。







本殿の周りに大きな絵馬があり、忠臣蔵物語を伝えている。


資料館があって
「内蔵助ゆかりの品を展示している」
というアナウンスが流れていた。

それを聞き
想像しただけでウルっときたので
神社をあとにした。





すぐ近くに赤穂城跡がある。







向こうに工業団地が広がっているのがわかった。








二の丸庭園。








この門を見た途端「赤穂城明け渡し」というワードが浮かんだ。

ウィキペディアによると、幕府側の赤穂城受け取りは
脇坂が総勢4550人を動員し、これに木下軍が加わり、さらに船数百隻が警戒
する物々しさだったとある。
こんなシーンは映画やテレビで見た記憶はない。






右奥に天守もあったようだ。







外様とはいえ播州浅野家は5万3千石の大名。

吉良家は4千石の旗本。けれど 位階は
内匠頭が従五位下で上野介は従四位下だった。







今に伝わる(というより見聞きする)話は仮名手本忠臣蔵がベース。



では、史実はどうなのか。 
幕府にはドラマチックな葛藤劇があったような気がする。

 
吉良邸は、討ち入りの前年、元禄14年に本所松阪町に移転。
当時はまだ未開の地だったらしく
これが討ち入り成功要因のひとつと考えられている。
そして屋敷替えは幕府の命令だった。


また12月14日がやってくる。